幼稚園は子どもたちが出会う初めての社会です。仲間と出会い、共に喜び、共に泣き、いろんなことを学び経験する場所です。10数年後には、子どもたちは住み慣れた家を離れて、自立のときを迎えます。自立の道は平坦ではありません。困難にぶつかっても、簡単にはあきらめず、自分で考え、自分で乗り越えていく、そんな子どもに成長してほしいと願っています。
幼稚園の間にしっかりと根を張ってほしい。どんなに強い風が吹いても、しなやかにゆれる木々のように育ってほしい。そんな願いを込めて、2008年6月より勝山幼稚園では保育の中にヨコミネ式教育法を導入して17年が経ちました。
「かけっこ・体操・読み・書き・数字(計算)・音楽」の毎日の繰り返しを通して、子どもたちが確実に変化・成長し、日々やる気が出てきて、集中力が着実についてきていることに、ヨコミネ式教育法導入当時の現場の先生たちは日々新鮮な感動と驚きと喜びを与えられましが、現場で与えられる先生達の感動と驚きと喜びは、17年後の今も変わりはありません。
夏休みが終わり、2学期が始まり10月を迎えました。
年少組の子ども達にも落ち着きが見られるようになってきました。先日にわたしが驚かされたことは、音楽室で年長組の子ども達がクリスマス会で演奏する合奏の練習の様子でした。音楽室を覗いてみると、全員の子ども達が先生の指揮に集中し、張りつめた緊張感が伝わってきました。勝山幼稚園に入園した当時の子ども達の様子からすれば、格段の変化と成長を遂げています。
この子ども達の「落ち着き」と「集中力」、別の言い方をすれば「心の成長」は「言葉の獲得」と大きく関係しています。
今の子ども達がキレやすく落ち着きがないのは、「心の教育」が欠けているからという意見も聞きます。そこで、「心の教育」とはどういうことなのか、子どもの心のつくられ方の過程を、言葉の視点から考えてみたいと思います。
赤ちゃんは通常、生後1年前後で言葉を理解し始め、3歳半前後には簡単な会話ができるようになります。特別な訓練をするわけでもないのに、言葉を自然に覚えていきます。幼児のこの言葉の獲得能力は神秘的ですらあります。
こうした言葉の習得は、心が生れてくる過程と重なっていると思います。私たちは心でものごとを考えます。そのとき言葉を使って考えています。言葉がなければ考えることはできないだろうと思います。心の定義にもよりますが、心は言葉によって形づくられているのではないでしょうか。
その意味で、言葉は心に眼に見えない具体的な「形」を与えていると言えます。
言葉は「心の容(い)れもの」とも言えます。喜怒哀楽などの感情は動作や表情で瞬時に伝えることができても、複雑な心のありようは言葉でなければ表現できません。心は感情や思いを表現する言葉で満たされています。そのために、幼児が真似をして覚える周りの言葉のあり方や環境が何より大事になってきます。つまり、人と言葉の環境が、幼児の心をつくる重要な要因となります。
子どもの心のありようが危うくなっているとすれば、それは子ども達を取り巻く言葉の貧しさと、根っこのところで深く関わっているのだろうと思います。
テレビコマーシャルやアニメなど、メディアで流されている言葉の影響を思わずにはいられません。人は言葉によって考え、自分を表現し、他者と交わります。人間の関係性作りにも言葉が深くかかわっています。言葉の変容は、社会そのものまで変質させていく力があります。
「心の教育」の重要性を文部科学省や教育関係者はしきりに説いていますが、どうすれば確かな「心の教育」ができるのかは必ずしも明らかにされていません。
私は「言葉の教育」がより重要であると考えています。人は言葉によって物事を考え理解します。確かな言語能力を身につけ、適切な言葉で自己を豊かに表現できる子どもは自己意識も確立し、友達や仲間との関係性も豊かになります。
勝山幼稚園では、「ふーみん絵本の森」の皆さんによる「読み聞かせ」や先生たちの毎日の読み聞かせ、また子どもたち自身の毎日の「読み」などを通して、「心の容(い)れもの」のとしての言葉が確実に養われています。そして、子ども達が自分を表現する言葉が豊富になり、心が安らかになって落ち着きが見られるようになるのだろうと思います。
お家での、親による子ども達への読み聞かせをぜひしてほしいと思います。肌と肌のぬくもりを感じながらの親と「共にいる」一体感のひとときは、親も子ども達の心も安らかになり豊かになるはずです。
チャプレン 武井 義定