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園長の手紙

2020年

2020年 9月

子供を授かると言う奇跡

本日から2学期の始まりです。

 夏休みはいかがでしたか?とは言うものの、夏休み期間中の自由登園日には8~9割の子ども達が通園していましたから、夏休みとは「名ばかり」かも知れません。お盆休みの一週間、私は孫(小学校3年女子)と楽しい時間を過ごしました。庭に設置したビニールプールでの水のかけあいの遊び、風和里での海遊び、映画館やDVDで漫画鑑賞三昧・・・「じいじ」と何かにつけて呼ばれて、「来てくれて嬉しや、帰ってくれて嬉しや」で、穏やかで嵐のような時間が過ぎ去りました。孫が親元に帰って、老夫婦が残された家の中は、しばし寂しさが漂いました。そして私達夫婦が40年前に最初に授かった長男のことに思いは巡って行き、10年前に結婚した長男夫婦の子どもが、このように目の前にいるという状況は決して「当たり前」ではないということを、改めて気付かされました。

 「じいじ、ばあば」と、孫が慕ってくれることは、奇跡と奇跡が重なり合ってこそ、生まれてくる有り難い幸せな状況であることを深く知らされました。

 この有り難さを思い起こさせたのは、以前に読んだ致知別冊「母」に掲載されていた助産師さんの体験談でした。

 そのお母さんは出産予定日の前日に胎動を感じないということで来院しました。急いでエコーで調べたら、すでに赤ちゃんの心臓は止まっていました。胎内で亡くなった赤ちゃんは異物に変わります。早く出さないとお母さんの体に異常が起こってきます。でも、産んでもなんの喜びもない赤ちゃんを産むのは大変なことです。

 普段なら助産師は、陣痛が5時間でも10時間でも、ずっと付き合ってお母さんの腰をさすって「頑張りぃ。元気な赤ちゃんが出るから頑張りぃ。」と励ましますが、死産をするお母さんにはかける言葉がありません。赤ちゃんが元気に生まれてきた分娩室は賑やかですが、死産のときには本当に静かです。しーんとした中に、お母さんの泣く声だけが響きます。

 そのお母さんは分娩室で胸に抱いた後、「一晩抱っこして寝ていいですか」と言いました。明日にはお葬式をしないといけない。せめて今晩一晩だけでも抱っこしていたいと言うのです。私達は「いいですよ」と言って、赤ちゃんにきれいな服を着せて、お母さんの部屋に連れて行きました。

 その日の夜、看護師が様子を見に行くと、お母さんは月明かりに照らされてベッドの上に座り、子どもを抱いていました。「大丈夫ですか」と声をかけると、「いまね、この子におっぱいをあげていたんですよ」と答えました。よく見ると、お母さんはじわっとこぼれてくるお乳を指ですくって、赤ちゃんの口元まで運んでいたのです。

 死産であっても、胎盤が外れた瞬間にホルモンの働きでお乳が出始めます。死産したお母さんの場合、お乳が張らないような薬を飲ませて止めますが、すぐには止まりません。そのお母さんも、赤ちゃんを抱いていたら、じわっとお乳が滲んできたので、それを飲ませようとしていたのです。

 死産の子であっても、お母さんにとっては宝物です。生きている子どもならば、なおさらです。一晩中泣き止まなかったら「ああ、うるさいなぁ」と思うかもしれませんが、それこそ母親にとっては最高に幸せなことです。

 子ども達から、「妹ができた、弟ができた」という話しを、新しい年度も何度も聞かされました。奇跡と奇跡が重なり合って授かった命を、慈しみながら大事に育ててください。

 小学校6年生から不登校の子どもが相談室にやってきて、「おふくろからは何にもしてもらったことがない。産んでくれと頼んだ覚えはない」などと訴えます。

 確かに、その子のお母さんは子どもとの関わりが上手ではありませんでした。小さい頃から、何かにつけて子どもを叱りつけるばかりで、親の思うように子どもが動かないと指図ばかりします。

 ある日、その子はお母さんの胸ぐらを強くつかんで、「なんでお前は俺を産んだんだ」と問い詰めました。お母さんは返す言葉がすぐに見つかりませんでした。

 後日に相談室にやってきたご両親に私は言いました。

 「子どものその問いかけは、何のために自分はこの世に生まれたのか」という自分自身に対する問いかけだと思うので、お前は俺達夫婦の大事な大事な命である、ということを直接に伝えてください。」

 中学校2年生になったその子は昼夜逆転の生活をしていました。毎晩、夜中の1時に、母親が用意した冷蔵庫に入っている食事を取りに、2階の自室から降りてくるのが決まりでした。

 その夜、夫婦は居間の電気を消して、その子が降りてくるのを息をひそめて待っていました。

 その子が居間の明かりをつけたら、テーブルに両親が座っているのを見つけました。あわてて2階の自室に戻ろうとするその子をテーブルに座らせ、父親自ら自分達の出会いと結婚の経緯、その子が母の胎に宿ったときの喜び、産まれたときの母と父の喜び、それらを語り終えたときには、夜が明け始めていました。

 「なんで、そんな大事なことを、いままではなしてくれなかったんだよ!」

 その子の慟哭につられて、両親も涙を流しました。このことを契機に、この家族は少しずつ変化し、その子も学校に行くようになりました。

 自分の目の前に子どもがいることは、決して当たり前ではありません。奇跡の積み重ねの結果に与えられた「幸せ」です。親子が一緒にご飯を食べ、一緒に笑い合えるのは最上の「幸せ」です。

目の前にある幸せに気づき、その幸せへの感謝が、子どもの成長の糧(カテ)です。

2019年

2019年 1月

子どもに家での役割を!!

自殺予防の相談電話のブースに座っていると、自殺願望の誰もが口にすることが、「こんな私を誰も相手にしてくれない」「私は誰からも、どこからも必要とされていない」という悲痛な訴えです。

 心理学者のアドラーは「人間の最も強い欲求は『所属』の欲求」と言います。 「場」への所属です。「場」とはモノとしての「場」ではなく、人間のいる「場」です。

 そこには「自分を受け入れてくれる人がいる」「自分を理解し、自分に共感してくれる人がいる」「自分を必要としてくれている人がいる」「自分がいなくなったら心配してくれる人がいる」という人間としての「連帯感を共有できる場」に対する所属感覚です。

 家庭という「場」が子ども達にとっては最後の砦となる「場」です。

 我が家の中に自分の「場」がある、親の胸の中に、自分の「場」があるというしっかりとした思いが子ども達の中に養われてほしいと願っています。

 そこで、今日からできる私の提案です。

 子どもに家の仕事を!!

 家の仕事をするということは、立派な家族の一員になった証です。ぜひ、早い段階から簡単なことで結構ですから、仕事を与えて一人前として扱い、自分がこの家で必要とされている人間であるとの自覚を持たせてください。

 家の仕事は「お手伝い」ではありません。隣の家の前を掃除するのは「お手伝い」ですが、家の仕事をするのは当り前なのですから、「手伝う」という表現は適当ではありません。

 幼い子どもに家の仕事をさせると、イライラすることもあるでしょうが、子どもの成長のために是非忍耐してください。

■ お弁当作り:お弁当箱に詰める「おにぎり」や「おかず」、まずは何か一つか二つ、子どもの学年に合わせて、簡単なものから子どもに詰めてもらったり、作らせてみませんか。そして水筒にお茶を入れて最後にふたを閉めることも。手始めに毎週水曜日を「お弁当作ったDAY(でい)」としています。何かひとつお弁当箱に子どもの作業を入れてください。

■ 上靴洗い:毎週金曜日に持ち帰る上靴を子どもが一人で洗うことができるようにご一緒に作業をしてください! 手順を教えてあげてください。

■ お家での役割:トイレや風呂場の掃除、洗濯たたみなど、お家での子どもの役割を与えてください。自分の働きがお家の役に立っているということで、家族の一員であるというしっかりとした実感を子どもに持ってもらいたいと願っています。

2018年

2018年 10月

杉本哲也先生講演会

「自立した大人になるために就学前に身に付けておくべきこと」要旨

10月15日(月)に杉本哲也先生(実践人の家理事)をお招きして「自立した大人になるために就学前に身に付けておくべきこと」という演題でお話をしていただきました。以下が当日の講演会の要旨です。

■子どもが成長するに従って、親は子どもに対する関わりを変えてゆかねばなりません。

■まずは子育て10訓のお話です。

「1.乳児はしっかり肌を離すな。」と言います。胎児期には、文字通り母子は臍の緒でつながり、羊水の中で守られています。出生と同時に赤ちゃんは外界にさらされ不安になります。その心の安定を保つためにも、しっかりと肌と肌を触れ合わせることが大切です。しっかり抱かれることによって、赤ちゃんは「守られている」「かわいがられている」と無意識のうちに感じ、信頼し安心するのです。それが、愛情や信頼、情緒安定、他人を思いやる心など、人間形成の基盤になります。

「2.幼児は肌を離せ、手を離すな」と言います。幼児は乳離れをしますが、一気に離すのではなく、常に親が手をつなぎながらそばにいることで、「心配しなくてもいいよ」という安心感を与えることが大切です。自立に目覚める幼児期は、完全な保護から社会に向いて一歩を踏み出す時期です。

「3.少年は手を離せ、目を離すな」と言います。少年とは、小学生期のことで友達との付き合いによって社会性が育つ時期なので、ここではしっかりと手を離し、活動範囲を広げてやらないといけません。ただし、いろんな危険があるので、目を離してはいけません。『論語』にも「父母在せば、遠く遊ばず、遊ぶこと必ず方あり。」という言葉があるのですが、子どもが遊びに行く時には、どこの誰と遊びに行くのかを把握するように努めてください。子どもがそれを隠そうとする時には悪事を働く可能性があるので、注意しなければなりません。

「4.青年は目を離せ、心を離すな」と言います。青年期にまでなると、完全に自立していくために、自分なりの生きがい、進路を歩んでいくときですが、気持ちの上では、親は子どもに対して心を離してはいけないということです。いずれにしても、子育ての最終的な責任は親にあるという基本を忘れてはなりません。

 以上は親の子どもの成長にともなう関わりですが、子どもの成長に合わせて親が子どもにどのように言えばいいのかが以下です。

5.小学生は暗くなる前に帰りなさい。

6.中学生は暗くなったら帰りなさい。

7.高校生は日付が変わる前に帰りなさい。お泊まりは基本的にはなしです。

8.大学生は盆と正月には帰りなさい。

9.大学院生は帰れる家があることに感謝しなさい。

10.社会人になったら、今度は自分は子どもが安心して帰ってこれるような家をつくりなさい。

 以上のように子どもの成長に合わせて関わり方を変えてゆかねばなりません。

 子育ての最終的な目標は「自立した大人になる」ことです。そのためには子どもとどのように関わってゆけばよいのかの参考にしてください。

■「自立した大人になるために」必要なことは人間力です。

人間力は、

 【1】知的能力(基礎学力・創造力・論理的思考力)

 【2】対人能力(コミュニケーション能力、規範意識、公共心)

 【3】自己制御能力(意欲・忍耐)

の三つから成り立っています。この三つの基礎能力をどのように身に付けさすのかが子育てであり、幼児教育です。これらの基礎能力の獲得は早い時期からすべきであり、その意味でこの幼稚園で展開している「ヨコミネ式保育」は効果的と思います。

■社会人としての一軍の条件

 就学前に身に付けておくべきことの一つは「生活習慣」、つまり起きる時間と寝る時間の定点化であり、生活ペースの習慣化です。

社会人になって仕事ができる人間は生活習慣が自分でコントロールできています。日頃はストレスがたまり、生活ペースが乱れがちになりますが、それでも起床時間と就寝時間は毎日一定している。これが大事です。

 勝山幼稚園では毎日「読み・書き・計算・かけっこ・体操」をしています。これが習慣化されることが子どもにとっては大きな財産になります。特に幼稚園の時期に、毎日、毎日、体を動かす習慣を身に付けることは大事なことです。

 次に習慣として身に付けておくべきことは「読書」の習慣です。そのためには「読み聞かせ」が大事です。2~4歳間は言語を獲得する重要な時期です。2歳の頃には発語レベルが200語と言われていますが、4歳になるまでに1000語になります。この時期にどれだけ「読み聞かせ」をしてもらったかで、その後、読書が好きになるかどうかが決まります。

 三つ目に大切なのは「親への感謝」です。福山雅治さんが初の父親役をした「そして父になる」という映画があります。実際に産婦人科で起こった子ども取り違え事件がもとになった映画です。自分の産んだ子どもの方が大切なので、子どもとりあえずは交換します。

 血のつながった親の方が大事なのか、育ててくれた親の方が大事なのか、子どもたちは果たしてどちらの親を選ぶか、皆さんはどう思いますか。

 交換された二人の子どもは血縁も育ても関係なく、愛情の深い一人の母親の元で育つことを望みました。

 親に感謝できる子どもは、自分にたっぷりの愛情をかけてくれたお母さんに感謝するのです。

そういう意味では、勝山幼稚園は「毎日のお弁当作りが大変」というお母さんの声が多いと聞きますが、子どものために毎日早起きしてお弁当を作ってる方が、子どもは自分は親から大事にされていると思うわけです。子どもの好きなものをおかずに入れて、嫌いなものも子どもに食べてもらいたいとの思いで、一工夫して、心を込めて用意する手作り弁当が、子どもに親の愛情を届け、親に感謝する子どもを作っていることになります。

■森信三先生は修身を教えた偉大な哲学者・教育者ですが、家庭でのしつけで気をつける三つのしつけを提唱されています。

 【1】自分からあいさつをする

 【2】名前を呼ばれたら「ハイ」と返事をする

 【3】はきものを揃える、椅子を入れる

と言われています。

【1】は主体性のある人間に育つためです。自分で考えて、自分で行動するために、率先して自分から挨拶をするのです。

【2】は素直な人間になるためです。

【3】は「けじめ」のある人間になるためです。

以上の三つが「自立した人間」になるための必要条件であると、森信三先生は提唱しておられます。

 「子どもがなかなか挨拶をしようとしません」という相談をよく受けますが、根気よく関わる以外にありません。相手が「お早う」というまで、「お早う」「お早う」と何度も根気よく声かけをするのです。

 名前も「ハイ」と子どもが返事をするまで、子どもの名前を呼び続けるのです。そのうち子どもの方が根負けをして「ハイ」と言うようになります。大人になって自分の名前を呼ばれて、「ハイ」と返事を自然にすれば、相手は「この人は本当に素直な人なんだ」という好印象を持ってくれます。

■母国語・日本語の獲得が大切

 私は世界中45カ国を旅したことがありますが、世界で通用している人間には共通点があります。その共通点の一つは、いかに母国語を獲得しているかです。いかに母国語で自分の国の文化を発信できるかです。

子どもが文字を獲得するのは、習うことから始まります。最初は鉛筆を持つことから始まり、グチャグチャに書いて、次は点線になぞって書いて、そのうちに文字が書けるようになります。訓練が必要です。その訓練はできるだけ早い段階で始めるのがよいのです。そうすると言語能力が高くなってゆきます。ですから、ヨコミネ式保育で「ー」で始まる書きのワークブックに取り組むことに大きな意味があります。文字は小学校に入学して獲得するのは遅いのであり、幼稚園の段階で獲得するほうがいいのです。小学校に入ったら、その文字を使ってどのように学習するかを学ぶのです。

 オーストラリアの小学校を見学して面白いことを発見しました。この小学校では母国である英語だけで授業するクラスと、バイリンガルの生徒を育てるために英語と日本語で授業をするクラスがあります。学力テストをするとバイリンガルのクラスの子どもの学力が高いのです。日本語は英語よりも複雑な言語なので、日本語を獲得しようとするプロセスの中で学力が自然と向上するのです。

 ちなみに、日本語を母国語とする人が英語を獲得しようとしても、学力はそれほど上がりません。なぜなら英語はシンプルな言語だからです。だから世界の公用語になっています。

 私はここで、バイリンガルの是非を議論しているのではなく、この複雑な言語である日本語のレベルを上げることがまず大事だと勧めているのです。

 しかも、この言語レベルを上げるのに大事な時期は6歳以下の就学前です。それは5歳までの間で言語にかかわる脳が発達するからだと言われています。

■子どもに「嘘をついてはだめ」とよく教えるのですが、それにもかかわらず子どもがよく嘘をつくのは、親が子どもにプレッシャーをかけ過ぎているからです。

 それではどうすればいいか。簡単なことです。たとえば挨拶をする、靴を揃える、椅子を机に入れるというようなことができているときに、「できているね」と認めることです。この小さな積み重ねが、子どもが親を感謝する気持ちが育まれてゆきます。

■子どもの幸せにつながるのは以下の4点を伸ばしてやることです。

 【1】自己肯定感

 【2】共生意識

 【3】成長意欲

 【4】ポジティブ思考

【1】を伸ばすためには、子ども自身のありのままを認めるということです。できていることも、できてないことも含めて、まずは子どもの全人格を無条件に受容するということです。できないことに否定的に関わってはいけません。

【2】は一緒に生きているということですが、これを伸ばすためには、子どもに何かにつけて「ありがとう」を言うことです。洗濯物をたたんでくれた、お皿をならべてくれた、玄関の靴をきれいにそろえてくれた、それらの子どもがしてくれたことに逐一「ありがとう」を言うことです。その言葉が子どもに「自分はこの家で必要とされている人間なんだ。役に立っている人間なんだ」という意識を植え付けます。これが大事です。

【3】を伸ばすためには、子どもがやってみようと思うことに対して、なんでもまずはやらしてみるということです。「そんなこと失敗するに違いない!無理!」と親が思っても、まずは挑戦させてみるとです。それが成長意欲を伸ばすことに大きく関わってきます。さらには世界観を広げるために、いろいろなところに連れて行って、世の中にはいろいろな職業があって、いろいろな生き方をしている人がいるということを教えてあげることも大事です。

【4】を伸ばすためには「なんとかなる」というポジティブ思考を持つことです。「なんとかなる」と思えば、だいたいのことは何とかなります。親自身もそのようなポジティブ思考を持つことが、子どものポジティブ思考をのばすことにつながります。

2018年 1月

幼児期にこそ、失敗と挫折の体験を

新年、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

 正月休みの間に20年前に出版された『いじめられっ子も親のせい!?』(田中喜美子著、主婦の友社)を読みました。

 まず本のタイトルに驚き、一体この著者は何を訴えたいのだろうという興味と関心が湧き出て、一気に最後まで読みました。

 本の内容に触発されて感じたことを思うままに書いてみます。

 子どもが幼稚園の時期までは、病気や大怪我を除いては、周囲の大人たちを巻き込む大きな問題はほとんど起こりません。

 子どもが周囲を巻き込む大きな問題、たとえば、いじめ、不登校、万引き等の問題を引き起こすようになるのは、多くの場合は小学校高学年以降です。

 そうすると問題は、子ども達が10歳くらいまでの間に、家庭や周囲(社会)から、どのように受け入れられてきたのか、どのような教育・しつけを受けてきたのかが問われるのだろうと思います。

 つまり、私達親が、どのような「子育て」をしてきたのかが問われます。

 子育てを論ずることは難しいことです。「こうすればこうなる」という定式化されたマニュアルというものがありません。

 私は3人の息子と関わってきましたが、子どもを育てているときは、毎日の目の前にあるやるべきことをするので必死でした。「あんなことを子どもに言ったけれど、よかったろうか」「あんな関わり方を子どもにしたけれど、よかったろうか」と反省する暇も時間もありませんでした。その時、その時に、できる限りの精一杯の関わりをしたつもりです。子ども達の思春期にどんな結果がでるのか、そんなことを気にしたこともありません。

 臨床心理士として、そして園長として30年間、多くの子ども達と関わってきて確かに言えることは、子どもが10歳を過ぎて、一筋縄ではいかない行かない問題を抱えたり、無気力がすっかり身についてしまってから、なんとか親の思い通りにしようと思っても、決して簡単ではないということです。手遅れまでとは言いませんが、親が途方もないエネルギーと努力を強いられることは確かです。

 「鉄は熱いうちに打て」とは古くから言われていることですが、子どもを「しつけ」るには時期があります。大事な時期は「幼稚園」の時期です。

 ここで言う「しつけ」とは、挨拶とか礼儀作法だけではなく、子どもがどういう姿勢で人生を生きていくのか、他者と関わりながら人生に喜びを持って生きていくための心の基礎を作ることが「しつけ」です。

 学校に行きたくない、給食に嫌いな食べ物が出るから、勉強が嫌いだから、いやな友達がいるから、いじめられるから・・・・そして最後には死に追い込まれてしまう・・・・私達がそのような子ども達を育てているとしたら、悲しいことです。

 子育てにおいて一番大切なものはなんでしょうか。

 それは子どもが、ただ与えられるものを待っているのではなく、「それは面白そう、やってみたい、やってみよう!」と自発的に物事に立ち向かっていく「積極的な心構え」です。

 それでは「積極的な心構え」を育てるには、どうしたらいいでしょうか。

 「ある出来事」に対してとった「特定の行動」が「満足のいく結果」を生んだら、それを繰り返すことによって「習慣」が出来上がります。

 子どもが新しい課題、たとえば「壁逆立ち」にチャレンジしたとします。うまくできたら、まず自分が満足します。そのできたことを周囲の大人が見逃さず、まずは認めて、ほめてあげる。これによって子どもは「今度は「壁逆立ち手ぶみの10回に挑戦してみよう」と、次の新しい課題に取り組む心構えを作り始めます。

 大切なのは、子どもがうまくいかなかった場合の周囲の関わり方です。「なんでこんなことできないの!」と叱るのではなく、できたところまでの成果を十分に認めて、ほめてあげることが大切です。

 さらに大切なのは、他者とよい関係を作っていくために必要な「共感の力」と「思いやりの心」を養うことです。この二つは人間が、幸福な人間として生涯を送るためにどうしても必要な「生きる力」です。

 「ハングリー精神」という言葉がありますが、「生きる力」はある程度、ハングリーな状況の中から生まれてきます。

 子どもが5人もいる家庭では、おやつ一つでも、ボーッと待っていたのでは手に入りません。先を争って手に入れなくてはなりません。

 戦後のものが少なかった「貧しさ」は、私の自発性を大いに養ってくれました。食べたいもの、欲しいものは主張しなければなかなか手に入りませんでした。

 取り合いのケンカも一杯しました。

 しかし同時に、他者と力を合わせて生きていく楽しみも、そこにありました。自分一人で孤立していては、何一つできないということを学ぶ「場」がありました。

 子どもにとって幼稚園は初めて体験する「場」です。この世は自分を中心に回っているのではないことを知ります。世の中には辛いこともあり、我慢しなければならないことが沢山あることを知らされます。

 今年も勝山幼稚園という「場」でいろいろな体験をしてもらいたいと願っています。「できた!」という達成感を積み重ねながら「積極的な心構え」を養ってもらいたいと思います。泣かしたり、泣かされたり、助けたり、助けられたりすることを沢山体験して、仲間と一緒に生きることの大切さと楽しさを知ってほしいと願っています。

 そして皆さんも「子育て」を通して、多くの学びをしてください。

2016年

2016年 12月

お言葉通りになりますように

昨日のクリスマス会で子ども達からたくさんの感動をもらいました。

 年長組の子ども達が演じた降誕劇のマリアは従順で謙虚でした。子どもを身ごもることはマリアにとっては覚えのないことでしたが、天使から「神にできないことは何ひとつない」と言われ、マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」と天使の言葉に身を委ねました。

 このマリアの「従順さ」と「謙虚さ」そして「信じる」を、夏前からクリスマス会に向けて準備を始めた子ども達と教師達に見る思いがしました。

 子どもは自分が弱い存在であり、周囲に全面的に依存しないと生きて行けないことを知っています。それゆえに少しばかりの抵抗をしながらも、最後には周囲の大人に対して従順であり、謙虚です。与えられた役割を受け入れ、教師の指示を受け入れ、ただひたすらに課題に取り組んできました。

 教師達も従順で謙虚でした。歌と合奏をしてくださる先生方の言われることに謙虚に耳を傾け、次回までにと与えられた課題に子ども達と従順に取り組み、子ども達の持てる力を信じました。

 最初からうまくいくわけではありません。子ども達もあせりました。教師達もあせりました。それでも決して諦めませんでした。

 子ども達は教師達を信じました。教師達も「きっと最後にはやり遂げてくれる」と子ども達を信じました。

 「お互いがお互いを信じ合う」ことは思いがけない力を発揮します。お互いに助け合い、励まし合い、労り合うという思いと心が通いだします。

 それゆえに保育の現場は緊張感はあるものの、決してギスギスとした空気は漂っておらず、「お互いが力を合わせて、最高のものをクリスマス会当日に披露しよう」という意気込みに満ちていました。

 子ども達と教師達が、お互いに自分達の力のなさと不十分さを知っているがゆえに、お互いに謙虚に素直に向かい合って課題に取り組むときに、最後には誰もが予想もしなかった祝福された驚きと感動の世界が与えられたのでした。

 子ども達よりの大きなクリスマスの贈り物に心より感謝します。

2016年 9月

非認知能力

夏休みはいかがでしたか? 日焼けをし、少し大人になった子どもたちが戻ってきて、勝山幼稚園の日常が始まりました。

 先日に開催された研修会で「非認知能力(スキル)」の養成がこれからの幼児教育のキーワードになることを改めて知らされました。

 「認知能力」は、IQ(知能テスト)や学力テストで計測される認知能力で、いわゆる「頭がいい」「勉強ができる」という能力です。

 それに対して「非認知能力」とは「忍耐力がある」「社会性がある」「意欲的である」「自制心がある」「すぐに立ち直る」といった、人間の気質や性格的な特徴のようなものを指します。

「生きる力」とも言えます。

 それでは非認知能力はどのように養われるのでしょう。このことについて無藤隆教授(白梅大学)は次のように言われます。(「これからの幼児教育」2016春:ベネッセ教育総合研究所)

 従来の日本の幼児教育は「心情・意欲・態度」を大切にすることで、非認知能力を養ってきましたが、大きな三つの課題が見えてきました。

 第一は、日本では特に意欲や興味・関心を大切にしてきましたが、非認知能力の重要な要素である粘りや忍耐強さや挑戦する気持ちなどの育成はそれほど重要視されていませんでした。

 第二は、認知能力と非認知能力は絡み合うようにして伸びるという認識が弱かったと思います。どういうことかというと、意欲や関心をもって粘り強く取り組むと自然に深く考えたり工夫をしたり創造したりして認知能力が高まります。

 そのように認知能力が発揮された結果、達成感や充実感が得られ、「次も頑張ろう」と非認知能力が強化されます。こうしたサイクルを意識することで、認知能力と非認知能力は効果的に伸ばせるのです。

 第三に、こうした「次も頑張ろう」や「やってみよう」という積極性は、従来はその子の気質や性格と考えられがちでした。現在の議論では、これを「スキル」と捉えて教育の可能性を強調しています。例えば、子どもの興味・関心は保育者の環境づくりにより意図的に高められますし、粘り強さは励ますことで伸ばせます。あえて「スキル」と呼ぶことで、具体的な支援を通して子どもができるようになることを示しているのです。

 こうした課題を踏まえ、もっと意図的に非認知能力を高めることが、今後の幼児教育では極めて重要になるとお考えください。

 「意図的に非認知能力を高める」ための保育が「ヨコミネ式保育」です。

「忍耐力」を伸ばすために、勝山幼稚園では園長と三つの約束をしています。

 挨拶をする

 早寝早起きをする

 脱いだ靴はきちんとそろえる

これらの約束に加えて次の四つの基本的モラルを守ることが、さらに忍耐力を養うことが最近の研究で分かりました。

 うそをついてはいけない

 他人に親切にする

 ルールを守る

 読み・書き・計算(勉強)をする

幼稚園での保育現場でも以上の四つの基本的モラルを子ども達に教えてゆきたいと思っています。

 次に「自制心」を育てるにはどうすれば良いかです。

 自制心が人生に与える影響や、どのように伸びるかはアメリカの大学で実施された「マシュマロ・テスト」と呼ばれる有名な研究により様々なことがわかっています。

 このテストは「ご褒美のマシュマロをどれだけ我慢できるか」を子どもに対して行い、幼児期の自制心の高さを測定し、その成績がその後どのような影響を人生に与えるかを追ったものです。※このテストの詳細については次回の手紙でご紹介します。

 マシュマロテストの結果によれば、我慢できなかった子どもほど、次のような特徴を持つ人間に成長したそうです。

 肥満の割合が多い

 コミュニケーション能力が低い

 ドラッグや犯罪に手を染める確率が高い

 「自制心」は長期的な目標を達成するのに欠かせないもので、EQ(心の知能指数)の根底にある大事な力とされています。

 「自制心」を養うためにヨコミネ式保育では一こま20分間で与えられた「読み・書き・計算」の課題をやります。

 子ども達は一日にするワークブックの量は自主的に進めてゆきます。強制はされていません。そして一定の課題を達成するとご褒美の「カード」をもらいます。

 子ども達の自主性を尊重し促すことで、子どもの自制心が養われるのです。

 非認知能力をより高めていくのに大事なのは「繰り返し」です。

 何度も同じ本を「読み聞かせ」をしてもらう、そして子ども自身も何度も音読をする、この繰り返しの作業が学習効果が高いのです。中国の諺に「読書百遍義自ずから見る」とあるように、どんな難しい書物でも繰り返し読んでいればいずれ理解できます。年少組・年中組・年長組で毎月読本をしていますが、繰り返し声に出して読むことで、文字と言葉をどんどん覚えてゆきます。(続きは次回)

2016年 7月

「夏休みの生活について」のお願い

■ 本日で1学期は無事に終わりました。保護者の皆さんのご協力をありがとうございました。ヨコミネ式保育を導入して9年目に入りました。子ども一人ひとりのために工夫をして、子どもが面白がる仕掛けを用意すると、子どもたちの「あり様」が少しずつ確実に変化・成長していくのには日々驚かされています。

 そこで子どもたちの励みになればと各種の「ミニ賞状」を手渡しています。今日は50m走タイム測定で各学年男子・女子の1~3位を表彰しました。ほめられ、認められることで「やる気スイッチ」が入り、さらに意欲を向上させてほしいと思います。お家でも子どもたちを認め、ほめてください。

 「認める」と「ほめる」は違います。ほめられてばかりいると、子どもたちは親や教師を甘く見るようになります。そして、本来持っている自分の能力まで甘く見てしまい、それ以上伸ばそうとしません。大切なのは、きちんとできたことを「できたね!」と確認してあげることです。これだけで、子どもはとても嬉しそうな顔をします。子どもにこびるようにほめなくても、子どもは「認める」だけで十分に満足するのです。そのうえで、「もっとできるだろう」と少し上の目標を提示して促してあげる。こうすれば、子どもはどんどん伸びていきます。

■ 「挨拶」は人を謙虚にします。ご家庭でも「お早うございます」「おやすみなさい」「ハイという返事」「脱いだ靴をそろえる」という礼儀に気をつけてください。

■ 早寝早起きの規則正しい生活習慣を守ってください。また起こしてもらわないで、自分で目覚まし時計をセットして、自分で起きるれるようにお家の環境を整えてください。(特に年長組の子どもたちは小学校入学に備えて努力してみてください。)朝食を食べる、夜は9時までには寝る、座る姿勢は立腰、立ったら椅子を入れる、一人でトイレに行き始末ができる、一人で手や顔を洗う、一人で着替えや脱いだ服をたたむ、食事はお箸を使って自分で食べる、後片付けをする、これらのことは幼稚園でも気をつけていることです。「幼稚園では言われるけれど、お家では注意されない」ということにならないように皆さんのご協力をお願いします。

■ 夏休み中、テレビ、ゲーム、DVD三昧の生活にならないように気をつけてください。画面の前で子どもがじっとしているのは、集中力でも落ち着きでもありません。画面から流れ出る内容は一方通行の情報であり、多くの場合は脳の発育を阻害すると言われています。また他人とのコミュニケーションが取れない子どもになってしまいます。特にゲームのプレイ時間は厳格に決めてください。

■ 今年度の「スローガン」募集では多くの皆さんからお寄せいただき、ありがとうございました。今年度は《元気いっぱい!夢いっぱい!笑顔輝く勝山キッズ!》です。

■ 夏休み中の自由登園日には可能な限り登園させてください。毎日の少しずつの積み重ねが大切です。

■ 夏休み中は子ども達と一緒に過ごす時間を大切にしてください。一緒に何かを作る、一緒に一つの問題解決のために時間をともにするなど、一緒にどこかへでかける等、意識的に「共にに過ごす」時間を工夫してください。

■ 弟・妹が生れて、いつの間にか親の注意と関心が薄くなってしまっている兄・姉への配慮にも気をつけてください。お家の人に弟妹を預けて、数時間でもかまいせん。兄・姉とお母さん「二人だけ」の時間を週に一回でも作ってください。きっと兄姉は大喜びします。そして自分は大事にされていると思い、心が落ち着きます。

■ 子どもにお家でのお手伝いの役割を与えてください。庭の水やり、風呂掃除など何でもかまいません。一つのことを「任せられる」という体験をさせてください。

■ うさぎ組と年少組の子どもたちで「おむつ」を使用している子どもは、思い切って、夏休みから一斉にパンツにしませんか!?「果たしていつからパンツに切り換えるべきか!?」と悩まれていると思いますが、3歳を過ぎたら十分に身体機能は整っていますから大丈夫です。今から「幼稚園の夏休みが始まったらパンツ」「夏休みが終わったらパンツ」と宣言して、子どもに心の準備をしてもらってください。

 パンツにすることで足元に尿が漏れ、排尿したことがよく分かります。幼稚園では失敗しても絶対に叱りません。うまくできたときには大いにできたことを認め、誉め、一緒に喜びます。お家でも幼稚園と歩調を合わせて切り換えませんか!?

 もう一つのお願いは、「スプーン」から「お箸」への切り替えです。「いつスプーンからお箸」へ切り換えるのかは、なかなか難しいタイミングですが、3歳を過ぎると指先の機能も整っています。まだお家でも幼稚園でもスプーンやフォークを使用している子どもたちは、夏休みから思い切って「お箸」に切り換えませんか!?

■ 子どもたちがお家でブリッジやブリッジ回転、壁逆立ち、逆立ち歩き、三点倒立などをしていると思います。そばで見ている皆さんは「怪我をしないだろうか?手首や首に負担がかかってないだろうか?」等、ハラハラされているだろうと思います。保護者があまりにも危険だと思うようなら、止めてください。しかし、危なっかしくないときは、本人の自主性に任せてください。子どもが自分の能力を知ることも大切です。なんでもかんでも「危ないからダメ!!」と禁止してしまうと、子ども自身が危険を予測したり判断したりすることができなくなり、大怪我をしてしまいます。これが一番危険です。ある程度は子どもの自主性に任せて、自由にやらせてください。ただし、必ず近くで大人が見守っているところでやらせて下さい。

■ 夏休み中は、子ども達と一緒に楽しい思い出を一杯作ってください。

2016年 1月

「ほめる」のではなく「認める」

 「ほめて育てる」はよく聞かれる言葉ですが、ほめすぎることは、子どもにとってはあまりよいことではありません。

 なぜなら、ほめてばかりいると、子どもたちはそれが当り前になって「がんばろう」というモチベーションアップにつながらないからです。

 また、ほめられてばかりいると、子どもたちは親や教師を甘く見るようになります。そして、大切な自分の能力まで甘く見てしまいます。

 本当は今以上に伸びるはずの能力を持っているのに、ちょっとのことでほめられると、子どもは「これくらいでいいや」と満足しがちです。

 これでは子どもは、いつまでたっても成長できません。

 では、何が必要なのかといえば、「認める」ことです。

 「認める」と「ほめる」は、似ているようでまったく違います。

 たとえば、できなかった跳び箱6段をクリアしたとき、子どもに対して「すごいね。がんばったね」と言うだけなのが、「ほめる」ということです。これだと子ども、この現状で満足してしまいます。

 一方、「認める」とは、「よし! よく跳べた! 次は7段! どうやったら跳べるか考えてみよう」といった具合に声をかけることです。

 大切なのは、きちんとできたことを確認してあげることです。

 これだけで、こどもはとても嬉しそうな顔をします。子どもにこびるようにほめなくても、子どもは「認める」だけで十分に満足するのです。そのうえで、「もっとできるだろう」と促してあげる。

 こうすれば、子どもはどんどん伸びていきます。

 「ほめる」のではなく「認める」ことが大切。これを忘れないでください。

 ほめないで、認めるだけでは親の愛情が不足するのではと心配されるかも知れませんが、そんなことは決してありません。

 普通に接しているだけで、子どもは十分に親の愛情を感じています。親が溺愛することほど、子どもに悪影響なことはないのです。

(横峯吉文『子どもに勉強を教えるな』宝島社新書、114~116頁より引用)

2015年

2015年 12月

クリスマスのお話

先日の園長による保護者の皆さんへの「クリスマスの話」で以下の詩を紹介しました。

 ある晩、男が夢をみていた。

 夢の中で彼は、神と並んで浜辺を歩いているのだった。

 そして空の向こうには、彼のこれまでの人生が映し出されては消えていった。

 どの場面でも、砂の上にはふたりの足跡が残されていた。 ひとつは彼自身のもの、もうひとつは神のものだった。

人生のつい先ほどの場面が目の前から消えていくと、彼はふりかえり、砂の上の足跡を眺めた。

 すると彼の人生の道程には、ひとりの足跡しか残っていない場所が、いくつもあるのだった。

 しかもそれは、彼の人生の中でも、特につらく、悲しいときに起きているのだった。

 すっかり悩んでしまった彼は、神にそのことをたずねてみた。

「神よ、私があなたに従って生きると決めたとき、あなたはずっと私とともに歩いてくださるとおっしゃられた。

 しかし、私の人生のもっとも困難なときには、いつもひとりの足跡しか残っていないではありませんか。

 私が一番にあなたを必要としたときに、なぜあなたは私を見捨てられたのですか」

神は答えられた。

「わが子よ。 私の大切な子供よ。 私 はあなたを愛している。 私はあなたを 見捨てはしない。qあなたの試練と苦しみのときに、ひとりの足跡しか残されていないのは、その時はわたしがあなたを背負って歩いていたのだ」

この詩は作者不詳の詩として世界各国の言語に訳されて、読む人々の心を動かしています。

 人間の行動の有り様には「能動」と「受身」の二つのパターンがあります。

 「能動」は物事を自分の力や努力で押し進めようとします。うまくいくこともあれば、うまくいかない時もあります。うまくいかなかったときは自分の不運と力不足を嘆きます。私達は私達の望むすべての事柄が、私達の思い通りにならないことを知っています。

 常識では考えられない出来事を知らされたマリアとヨセフは、悶々とした葛藤の果てに、自分たちの力ではどうしようも変えようのない流れを受け入れました。神に背負われて生きる「受身」の生き方を選択したのでした。

私達の人生の中で、もしかしたらこのような究極の選択を迫られることがあるかも知れません。そんなときに「なるようになりますように」という祈りに身を任せる生き方もあることを教えられます。

2015年 3月

「伝える力」と「自尊心」

年長組の子ども達ともいよいよ明日でお別れです。小学校という新しい場所でも子ども達が元気に過ごすように日々の祈りの中に覚えています。

 3月4日に行われた体操発表会はいかがでしたか?子どもたちの舞台の上の姿に大いに心を動かされたと思います。

 ヨコミネ式保育の目的は「伝える力」と「自尊心」を養うことです。

 この二つの力は、やがて子どもたちが自立の時期を迎えるときに、「生きる力」を支える両輪としての力強い役割を果たします。

 「伝える力」は自分の思いや願いを相手に伝える力です。

 長年、子どもたちと関わっていると、「子どもは神様」と思わされる現場によく遭遇します。

 神様の特性は「見えない・聞こえない・触(サワ)れない」です。

 そして神様は時には理不尽に私たちを振り回します。

 思いがけない災難や苦難に遭遇したり、悲しい出来事の中に放り込まれます。

 そのたびに「神様、なぜ私はこんな苦しい目、つらい目に遭わなくてはならないのですか?」と尋ねても、神様からは何の返答もありません。

 逆に渦中の出来事が思いもしなかった方向に展開し、最後には本当に歓喜の思いや幸せをもたらしてくれた経験も、何度となくあります。

 そんなときは、「神様、ありがとう!」と素直に手を合わせることができます。

 子どもも神様と同じような特性を持っています。

 私たち大人には子どもの「本心・本音」は、「見えない・聞こえない・触れない」であり、聴き取るのは難しいのです。

 子どもが語る心の内は、親の前と幼稚園の教師の前では違うようです。

 子どもは親から見放されると生きては行けないことを本能的に知っています。

 それゆえに、自分がどのように振る舞えば親が喜ぶのかを悟り、あるいは親の自分に対する願いを先取りして、自分の本当の思いとは違うことを言います。

 幼稚園の教師たちは保育の現場の中で子どもたちと真剣に向かい合い、子ども一人ひとりの本当の思いは何であるのか、日々、聴き取る努力をしています。

 親が期待されている思いや願いではなく、自分の本当の思いを、自分の言葉で担任教師に伝えてくれることを忍耐強く待っています。

 それゆえに体操発表会での年長組の子ども達の目標設定は、親に語った目標と、教師に語った目標とに、少しずれが生じた場合もありました。

 教師は体操発表会当日の子どもの思いを大切にしました。保護者の皆様のご理解をありがとうございました。

 子どもは本当に小さな存在でありながら、周囲の大人たちを理不尽に振り回すという意味では神様に似ています。

 「幼稚園に行きたくない」「小学校に行きたくない」の子どもの言葉や行動の一挙一動に振り回されます。

 振り回されている渦中は、「なんでこんな辛い思いをしなければならないの?」と苦しみます。

「他の子はちゃんと学校に行っているのに、なぜ家の子に限ってこんなことになっているの?」と親が嘆いている間は、子どもの動きはあまりありません。

 けれども、そのように周囲を振り回す子どもの有り様を「この子にとっては必要な時なのだ」と「そのまま」に受け止めれるようになった頃に、子どもは思いがけない変化・成長を遂げます。まるでサナギから脱皮した蝶のように新しい世界へ飛び立っていくのです。

 そして、「このこの親であってよかった!ありがとう」と、子どもに感謝するのです。

 聖書の中では子どもは「光の子ども」と呼ばれています。神様が照らす光を何の疑いもなく存分に受けているからです。

 だから、体操発表会がそうであったように、子ども達の光り輝く姿を見ると、私たちも嬉しくなり、幸せな気分になるのでしょう。

 「自尊心」は「自分の尊厳を意識・主張して、他人の干渉を受けないで品位を保とうとする心理・態度」です。

 自尊心はまず周囲の大人たち、まずは身近な親から「あなたは私たちの大切な宝物」「生れてきてくれてありがとう」と承認されることから養われます。

 さらには自分で自分のことを認め、自信を持つことでもあります。

 幼稚園では「読み、書き、計算」のワークブックを毎日少しずつ取り組み、分からなかったことが分かるようになり、「かけっこ」や「体操」で、できなかったことができるようになり、多くの場面で先生や仲間に認められ、ほめられ、沢山の自信を得ることができました。

 年長組の子どもたちは小学校では、勝山幼稚園在園中に養われた「伝える力」と「自尊心」によって支えられて、毎日元気に登校することを願っています。

 そして学年が一年上がる子どもたちも、幼稚園で多くの経験を積み重ねて、さらなる成長を願っています。

2015年 1月

子どもを躾けるということ

新年あけまして、おめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。沢山の年賀状をありがとうございました。本来なら、お一人おひとりにお礼状をだすべきところですが、この場を借りて御礼申し上げます。

 近頃はあまり見かけなくなりましたが、昔の田んぼは二毛作といって、春から秋にかけて稲を作り、秋に収穫してから翌年の春までは麦や大豆を作っていました。

 麦の種をまいた田んぼでは霜がおりる1、2月ころになると、麦の芽が出始めます。そうなると、「麦踏み」という農作業が行われるようになります。

麦踏みとは、麦の芽をかがとで踏みつけていくことですが、なぜそうするかというと、麦の葉や茎が無駄に伸びないように抑えつけるためです。そうしますと、麦は葉や茎を伸ばす前に根を張るのに力を用い、麦の根が強固になるのです。

 麦は踏みつけられることによって、奥深く大地の中に根を伸ばし、根の生命力が強くなるのです。根の強い生命力があってこそ、やがて麦はしっかりした葉と茎、さらに花と実をつけるようになります。

 子どもに対する「躾」も、この麦踏みにたとえることができます。

 生来の我が儘(ママ)でやりたい放題の人間的欲望を抑えることによって、子どもの内なる生命力は強固になり、精神的にしっかりしてきます。

幼いときから、子どもに求められるままに我が儘放題にさせておくと、精神的にひ弱い子どもになってしまうことは、多くの人が経験的に知っていることです。

 甘やかされて育った子どもは、いろんな苦難に耐えることができません。

 苦難に耐えることができなければ、場合によっては良からぬ道へと歩みます。精神的に弱い人間になり、自立への道を歩むのが困難になってきます。それゆえに、子どものときに精神力をしっかりと養っておかなければなりません。

 幼稚園でも「躾の三原則」を今年も子どもたちに教えます。ご家庭での実践もよろしくお願いします。

一、朝の挨拶は自分からする

二、自分の名前を呼ばれたら「ハイッ」 とはっきり元気よく答える

三、履物をそろえ、立ったら椅子を元 通りに入れる

2014年

2014年 12月

クリスマスのお話

幼稚園の2学期は本日で終わりです。昨日のクリスマス会はいかがだったでしょうか。子どもたちの成長にさぞ驚かれ、また感動されたと思います。

聖書が伝えるイエス・キリストの誕生の出来事は私たちの常識では起こり得ないことです。

 しかし、このような普通ではありえないことを、なぜ2千年もの間、人々は喜びの出来事・物語として伝え信じているのでしょうか。

 マリアは妊娠していることを知らされたとき、さぞ驚いたことでしょう。自分には身に覚えのないことですから。

 ヨセフも驚いたことでしょう。信じていたマリアが妊娠したのですから。

 マリアも、特にヨセフはこの困った事態を何とか収めるためにいろいろと考え動きました。マリアを傷つけないようにひそかに離縁をしようとしました。

 しかし、夢の中で天使から「インマヌエル・神は我々とともにおられる」という言葉を告げられたときに、ヨセフはものの見方と生き方を変えられました。

 マリアも「お言葉通りになりますように」と、自分の身の上に起こっている出来事を受け入れることにしました。

 自分が正しいと思うことだけを基準に生きるとき、その人の生き方に何の変化もありません。自分が考えることや行動することが正しいと思っている限り、「信じる」という告白はできません。

 ヨセフとマリアが、この思いがけない出来事の中で、お互いが見つめ合いながら、自分たちの力で何とかこの事態を打開しようとするならば、ただ「別れる」という結論しかありません。

 しかし二人は生き方を180度転換しました。自分たちが動いて何とか解決するという能動の姿勢から、大きな流れに身を任せるという受身の姿勢へと転換したのです。そして二人に知らされたのは、「インマヌエル・神は我々とともにおられる」ということ、自分たちはもう孤独ではないということを知らされたのです。

 イエス・キリストの誕生の物語は私にとっては永遠の謎ですが、ヨセフとマリアの生き方から教えられます。

 すべてのことを自分の力で何とか解決しようとすると自分の力のなさと限界をいやいやながら知らされます。ある時に「なるようにしかならない。ここまで精一杯やったのだから、あとは流れに身を任せよう!」と受身に開き直ったとき、思いもしなかった方向へと事態は展開し、結局はいいような結果へと導かれるであろうことを教えられました。

2014年 8月

幼い頃からの積み重ね

夏休みはいかがでしたか? 楽しい家族の思い出を紡がれたことと思います。

 さて先日に報道された女子高校生が友人を殺害するという痛ましい事件には大変驚かされました。さらには親の育児放棄、我が子への虐待、悲惨な事件は連日のように報道されています。今の時代は60年前に私が子どもであった頃に比べれば変化と進歩を遂げています。

 しかし、たとえ時代が変わろうとも人間としての「有り様」に何の変わりもありません。

 勝山幼稚園の子どもたちは20年後には立派な大人になり、家族を持ち、さらには将来の日本を背負う大事な役割を与えられます。

 人は教育によって立派な人間へと成長してゆきます。そして教育は幼い頃からの正しい積み重ねが肝要です。

 それでは幼い頃からの教育をどのように提供すればよいのだろうかと、適当な読本を探していましたが、ある研修会で「日本の美しい言葉と作法 ―幼児から大人まで―」(B5版75頁、登龍館)という読本に出会いました。

 この読本を年長組は二学期から、年中組は運動会後から、年少組は三学期から導入します。この読本は幼稚園の教職員の子どもたちへの熱い思いを込めて無償配布いたします。

 この読本の著者の野口芳宏先生は本書の編集方針を次のように書いています。

 第一に、本書は、親や祖先、国家や国土を愛し、常に感謝の心を持って生きる、人間としての根本的な基準を明示しました。それが、日本国民としての基本であるからです。

 第二に、本書では幼児から大人まで共有すべき生活上の基本的なルールをまとめました。言葉遣いや家族の在り方、人間関係などがそれです。みんなで声に出して読み、子どもと共に学んでください。

 第三に、「作法」を重視しました。作法は伝統に基づく行動の規範です。正しい作法の持ち主は誰からも大切にされ、幸せになれます。作法を身につけることは、他の人を大切にすることであす。ですから、作法を守れば誰からも大切にされるのです。

 第四に、本書は「美しい言葉、正しい日本語」で書かれています。美しい言葉、正しい日本語に囲まれ、親しみ、使えるようになることが、美しい心、正しい心を育てる基本だからです。短く、簡潔な、響きの美しい日本語を、楽しく音読しましょう。

 第五に、本書は全て日本語の正式な表記法「漢字仮名交じり文」で書いています。幼い子どもは漢字を読む天才的な力を持っています。繰り返し音読をしているうちに、無理なく自然に漢字も平仮名も読めるようになることはすでに石井勲博士が実証されています。日本語の縦書きの文章は右から左へ読み進めます。繰り返し、繰り返し音読するこの本は、平仮名よりも漢字が目に入るようにと、ルビは漢字の左側に添えました。

 どうぞ、家庭でも、園でも、学校でも毎日少しずつ、本書をみんなで音読し、美しい言葉と作法を身につけて下さい。そうすれば必ずや生涯の幸せが約束されるに違いありません。

 ※石井勲博士は「石井方式」と呼ばれる幼児期における言葉の教育法を考案された先生です。人は言葉で物事を理解し考えます。思考を支えるのは言葉です。その土台作りを記憶力の優れた幼児期ノの早い段階から、漢字仮名まじりの日本語表記に親しんでもらい、語彙を増やし、日本語を正しく深く理解することを目的とした教育方法です。勝山幼稚園でも今年度から「読み」の時間に漢字仮名まじりの絵本を導入しています。

この読本の第一頁には次のような言葉が書かれています。

 家族が好きです。

 先生が好きです。

 友達が大好きです。

 みんな、かけがえのない宝です。

 この言葉に対して野口先生は別冊「親と教師のための教養書」には次のような言葉を添えています。

 「家族と先生と友達」は、子どもにとって最も身近で、最も親しく、最も大切な、まさに「かけがえのない宝」である。

 家庭や家族は、子どもにとってどこよりも心の安らぐ、最も楽しく、有り難い場である。そしてまた、最も大きく、強く、子どもの人間形成に影響を与える場でもある。そこが子どもにとって、まずは「大好き」な場として受けとめられ、慕われることが肝要である。イギリスの諺に「どんな遠い旅も家の戸口から出発する」とあるが、深い示唆に富む言葉だ。

 園や学校の先生は、子どもを導く専門家である。勉強の内容やその進め方、人間関係の在り方や築き方、毎日の充実のさせ方や楽しみ方等々を、親しみを込めて分かり易く教えてくれる。その先生が「大好き」になることは、子どもの豊かな成長を約束する。先生の導きに素直に従う子どもは、生涯にわたって伸び続け、生涯を充実させる素地を身につけるだろう。

 友達は、自分とは別の他者という存在である。友達との人間関係を築いていく過程で、子どもは多くのことを事柄を学び、考える。社会生活上のルールやマナー、楽しみ、悲しみ、悩み、苦しみ等々を学んでいく。多くの友達を持ち、多くの楽しみを得るように子どもを導くことが大人の務めである。

 あるいは「園や学校の生活」の章では次のように書かれています。

 園や学校は社会生活を学ぶ場です。

 誰も観ていないところでも、誰かがあなたの行いを見ています。

 幼稚園では毎日、短時間、一頁または二頁を繰り返し一週間程度音読します。必要に応じて教師は別冊「親と教師のための教養書」を参考にしながら子どもたちに言葉の解説をします。子どもたちが美しい言葉と作法を身につけてくれることを願っています。

 そこで、保護者の皆さんにお願いですが、ご家庭でも音読・道徳教科書「日本の美しい言葉と作法 ―幼児から大人まで―」と別冊「親と教師のための教養書」を購入してくださり、ご家庭でも子どもたちと一緒に毎日少しずつ音読をしていただき、保護者の皆さんは「教養書」を参考にして少し言葉の解説を加えていただけたらと思います。

 「躾は年齢を『つ』で数えるときにまで!」と言われています。人間としての大事な基礎としての躾と作法をご家庭とご一緒に子どもたちに伝えたいと思います。

2014年 3月

ご卒園、おめでとう!!

年長組の子ども達とは今日でお別れです。小学校に入りますと学習の比重が大きくなり、また友達や先生との関わりに、子供たちは幼稚園では経験しなかった苦労や辛さを少しずつ担うことになります。このことは子供たちにとっては大変なことだろうと思います。

 詩人の相田みつをさんはこんな詩を書いています。

  「道」

 長い人生にはなあ

 どんなに避けようとしても

 どうしても通らなければ

 ならぬ道

 というものがあるんだな

 そんなときはその道を

 だまって歩くことだな

 愚痴や弱音は吐かないでな

 黙って歩くんだよ

 ただ黙って

 涙なんか見せちゃダメだぜ

 そしてなあ

 その時なんだよ

 人間としてのいのちの

 根がふかくなるのは

 (相田みつを書『育てたように子は育つ』小学館)

この詩は新しい一歩を踏み出す人たちへの暖かい励ましの詩です。

 卒園する子どもたちにとっても、これから通り抜けていかなくてはならない道が待ち受けています。子どもだから愚痴や弱音を吐いてもいい、涙を見せてもいいのです。そんなとき、子どもたちの訴えに耳を傾けて聴いてください。

 「聴く」とは、右から左へ聞き流す「聞く」ではなく、「なぜ、どうして?」と問い詰めていく「訊く」でもありません。「そうなんだ、そんなことがあったんだ。それで悲しい気持ちになっているんだ、辛いんだ・・・」と、まずは子どもたちの訴えをそのまま受け止めてください。

 先日、教会の礼拝堂で年長組の子どもたちと最後の礼拝を守りました。そのときに、こんなメッセージを子どもたちに贈りました。

 「辛いことや、苦しいことや、悲しいことがあって、いっぱい我慢して、我慢して・・・・もう我慢できない、学校に行きたくないと思ったとき、幼稚園を思い出してください。よかったら午前中に幼稚園に来てください。ワークブックの丸つけを手伝ってください。幼稚園の子どもたちと一緒に遊んでください。きっと元気をもらえると思います。幼稚園の先生たちは皆さんのことをいつでも待っています。」

 今でも鮮明に覚えている忘れられない辛い出来事があります。それは47年前の高校2年生の時のある朝のことでした。私は布団から起き上がることができませんでした。全身の力が抜けたような虚脱感に襲われました。学校を休み始めて一週間がたちました。さすがに母親は私を「学校をさぼっている」と疑い始めました。すべてのことが煩わしくなり、近所の金物屋から鍵をいくつか買ってきて、自室の内側に取り付け、私へのすべての関わりを拒否しました。やがて昼夜逆転の生活になりました。なぜなら人の気配もない暗闇に囲まれた静かな空間が落ち着くからです。いまで言えば「閉じ籠もり」です。3か月ほど続きました。

 そんな私を救い出してくれたのは、当時、東京に単身赴任していた父親でした。ある日松山に戻ってきて、「わしと一緒に東京に行かんか!?」の一言で東京の社員寮での生活が始まりました。毎日一緒に会社に出かけ、父親の横に用意されいた小さな机が私の仕事場でした。父親は「どうして学校へ行ってない?」と私に一切尋ねることはありませんでした。一緒の生活が始まって1カ月経った2月26日に新宿に出かけました。山手線沿線は前夜に降った雪で覆われていました。電車の窓から雪景色を見ていた父親が、「あの時もこんなに雪が降っていた!」と突然に言います。「あの時って?」と尋ねと、「お前は2.26事件を知らんのか?」と私を見ました。2.26事件は1936年(昭和11年に起きた日本陸軍の青年将校らによるクーデター未遂事件です。父親は陸軍士官学校卒だと母親から聞いていましたので、私は咄嗟に「父さんは反乱側、制圧側?」と訊くと、「そんなことは昔のことで忘れた!」と私を睨みつけました。その瞬間、私の中で何かが起こりました。その時までは「望みもしないのに無理矢理に生きさせられいる。こんなしんどい思いはいやだ!」と悶々としていたのですが、「人は生かされているんだ。だからこの命をどのように引き受けて生きていくのかが問われているんだ!」と妙に納得し、翌日に松山に戻り、学校へも戻りました。勿論、高校を卒業するまで、まだまだいろんな出来事がありましたが、それ次の機会にお話しします。

 「長い人生にはなあ、どんなに避けようとしても、どうしても通らなければならぬ道というものがあるんだな」という相田みつをさんの言葉には重みがあります。子どもたちには、やがて出会うであろう苦難をなんとかくぐり抜けてほしいと願っています。幼稚園での教師や仲間との関わり、そしてヨコミネ式保育を通して養われた「体の力、学ぶ力、心の力」がこれからの子どもたちの時間を支えることを信じています。

 ご卒園、おめでとう!!

2014年 1月

江戸時代の「子育てしぐさ」

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

 勝山幼稚園では「立腰」を実践していることについて、すでにお知らせしましたが、これからも「躾け」を身につける一環としてさらに実践いたします。

 「三つ心、六つ躾け、九つ言葉、十二文、十五理で末決まる」という先人の知恵・江戸町民の「子育てしぐさ(思草)」があります。これは丁稚の子どもを優秀な商人に育てるための今でいうマニュアルであり、江戸時代の人々の子ども観は、実に含蓄のあるものでした。今なら脳科学の知見でそれなりの説明ができるでしょうが、当時はそれを子どもを観察する中から、子どもを大人へと育てるための本質を的確に述べています。

 「三つ心」:人間は脳・体・心の三つから成っていると捉え、心は脳と体を結びつける糸のような物と考えていました。そこで、3歳までに、この糸を綿密に張り巡らせようとしました。心がなければ人形で、人間ではないという思いました。

 そのためには、まず親は子どもをしっかりと抱きしめて、愛情を注ぎ、そして美しいものや自然を見せ、手本のしぐさを見せ、みずみずしい感性に訴え、見よう見まねで子どもに覚えさせることが大切と考えました。

 「六つ躾け」:6歳までに張り巡らした心の糸をスムーズに動かせるように何度も繰り返し訓練を重ねることが大切と考えました。脳と体を結ぶ心の糸の動かし方を、親は手取り足取りまねをさせて、日常茶飯事のしぐさなど、癖となるまで繰り返して訓練し、身に付けさせました。

 「三つ心」と「六つ躾け」は6歳までに基本的な躾を身につけさせ、人間としての基本的な器をしっかりと養うことが大切であるとしました

 「九つ言葉」:9歳までには、どんな人にも失礼のない挨拶ができるようにするのが親の務めであると考え、家庭での挨拶が癖になっていなければ外でも挨拶はできないと、繰り返し行いました。特に人間関係を円滑にする挨拶ができることが必要で、例えば「こんにちは」の「は」は、次に「(今日は、)ご機嫌いかがですか。」という相手への気配りの言葉がつながっているということから、こういう気配りの心をもった挨拶ができることを9歳までに身につけることができるように徹底しました。

 言葉についても、自分の言葉で話ができるようにと、親はいろいろ話しかけ、会話を通して語彙(ごい)を増やし、言葉の使い方を学ばせました。

 「十二文」:12歳の頃には、一家の主の代筆(注文、請求書、苦情処理等)ができ、主人に万一のことがあっても、しっかりと代行ができるようにするためです。自分の思うこと、考えることを十分に伝える作文力が「育ちの指標」とも言えます。

 「十五理で末決まる」:物事の道理(経済・物理・化学・心理学等)が理解できるようになるのが15歳です。この年齢になると、どんな生きる道がその子に向いているのかの将来が大方分かりますので、江戸時代の親は真剣に子どもに関わったようです。「末きまる」というのは、子どもが自立できるかどうかは、親のしぐさによるところが大きいと見ていたからです。各年齢の段階の育ちを経ていない子どもの親は、「親の顔が見たいものだ」とからかわれ、責任も問われていました。江戸時代には親には厳しい子育ての責任が課せられていました。

 こんな江戸時代の子育てのあり方に対して、現代は・・・と問われそうですが、子育ての責任を家庭だけに負わせられるには厳しいものがあります。厳しい経済事情を各家庭は抱えており、また子どもを取り巻く貧困も拡大してきました。

 それゆえに、家庭や親だけが「子育て」の責任を負うのではなく、子どもが所属している身近な共同体・社会(幼稚園・保育園・学校等)も一体となって、地域社会として子育てをどのように担っていくのかが重要になってきます。

 江戸時代には各地に「寺小屋」があって、「読み書き算盤」を必須としながら、実学としての「しぐさ」の学習もしていました。また、「講」(江戸町方の間で組織されていた相互扶助の一種で、地域などの問題を解決する手立てを話し合う)には子どもたちも参加させ、会議の後には子どもたちや後輩に「江戸しぐさ」を手取り足取り教えていたそうです。親と寺小屋(学校)、講(地域)が一体となって子どもを育てていました。

 勝山幼稚園でも子どもの成長を見守り、促す役割として「しぐさ」を手取り足取り伝えたいと願っています。

2013年

2013年 12月

子供と共に

幼稚園の2学期は本日で終わりです。

 今学期も大変お世話になりましたことを御礼申し上げます。

 昨日の「クリスマス会」は、いかがでしたか?子どもたちの成長ぶりに感激されたのではないでしょうか。また私達教職員も子どもたちが秘めている限りない

 可能性に触れて、大いに心を動かされました。最高のクリスマスプレゼントをもらいました。

 聖書が伝えるクリスマスの出来事によると、乙女マリアのもとに天使が来て、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」と言われて、マリアは戸惑いました。さらに天使は「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」と言います。マリアは「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」このマリアの言葉に天使は答えて、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。・・・神にできなことは何ひとつない。」と言います。そしてマリアは「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように。」と、天使の言葉に身を委ねます。

 人生経験が豊かになることは、人生というものは自分が計画をしたように思う通りにならないことを知ることであると、誰かから言われたことがあります。

これは思いがけない災難や不幸に否が応でも遭遇することを暗示した言葉です。

 しかし、「人生は思い通りにならない」という言葉は、逆に、もしかすると自分が思っていた以上の素晴らしい体験をすることがある、ということでもあります。

 「お言葉通り、この身になりますように。」というマリアの応答は、ひとりの女として、今の事態に対処する力を何も持ち合わせておらず、無力な自分であるゆえに、神に対する徹底的な従順を告白する言葉でした。一切のことを神に委ねるという謙虚な生き方を選び、最後には神から豊かに祝福されたのでした。

 クリスマス会の準備は夏休み前から始まり、10月の運動会が終わると本格的に始まりました。私は準備を進めている保育の現場で、聖書に描かれているマリアの「従順さ」と「謙虚さ」を子どもたちと教師たちに見るような思いがしました。

 子どもは自分は弱い存在であり、周囲に全面的に依存していかないと生きて行けないことを知っています。

 ですから少しばかりの抵抗をしながらも、最後には周囲の大人に対して従順であり、謙虚です。

 与えられた役割を受け入れ、教師の指示を受け入れ、ただひたすらに課題に取り組んでいました。仲間に教えてもらいながら、支えてもらいながら、練習をしてできるようになったことを素直に喜び、さらに新しい課題に取り組んでいました。

 教師たちも従順で謙虚でした。歌と合奏を指導してくださる先生方の言われることに素直に耳を傾け、次回までにと与えられた課題に子どもたちと謙虚に取り組んでいました。

 最初からうまくいくわけではありません。子どもたちもあせりました。教師たちもあせりました。それでも諦めませんでした。子どもたちは教師たちを信じました。教師たちも「きっと最後にはやってくれる」と子どもたちを信じました。

 「お互いがお互いに信じ合う」ことは思いがけない力を発揮します。お互いに助け合い、励まし合い、労り合うという思いと心が通いだします。

それゆえに保育の現場は緊張感があるものの、決してギスギスした空気は漂っておらず、「お互いが力を合わせて、最高のものをクリスマス会当日に披露しよう」という意気込みを感じました。

 子どもたちと教師たちが、自分たちの力のなさと不十分さを知っているがゆえに、お互いに謙虚に素直に向かい合って課題に取り組むときに、最後には誰もが予想もしなかった祝福された驚きの世界が与えられれたのでした。感動でした。

 もっとも、素晴らしいクリスマス会の出来に大いに驚かされたのは私達教職員の方で、子どもたちは当たり前のように受け止めていました。

 大きなクリスマスプレゼントを贈ってくださった神と子どもたちに感謝します。

 メリークリスマス!!

2013年 9月

人の心のうちに生きる

2学期が始まりました。大きな行事が重なりますが、よろしくお願いします。

 「わたしの魂は召されても人の心のうちに生きる」とは恩師からたびたび聞かされていた言葉です。

 去る8月25日に大学入学以来45年間、公私にわたりお世話になった恩師が天に召されました。86歳でした。70歳まで同志社大学で教鞭を執り、その後85歳まで京都文教大学の学長として、我が国初の博士課程を擁する臨床心理学部をもつ新大学の設立と運営に尽力されました。河合隼雄さん(元文化庁長官・ユング派分析家)とは生涯に渡り尊敬とユーモアに満ちた深い親交で結ばれていました。

 私にとっては偉大な指導者であり、時には優しく厳しい父のような存在でした。京都で執り行われた前夜式(仏教で言う通夜)と葬儀式に参列し、私は大きな慰めを与えられました。

 キリスト教では「亡くなる」ことを「天に召される」と言います。神によって地上に命を与えられ、神によって生かされ、神によって命の終わりを与えられ、最後は天の神のもとに召されると考えます。ですから一連の前夜式、葬儀式は死者のためではなく、悲しみのうちに遺されたご家族や近親者、友人たちのための「慰めの儀式」です。

 ご遺族から参列者に最後にこんな一文が配られました。

 いつもにこやかで、楽しいことが好きで、涙を見せない父でした。

 昨年夏に病気が発覚してからは、治療に励みつつも、秋には家族がハラハラする中を、500名もの聴衆の方々を前に講演に臨んだり、海外や遠方からのお客さまにも積極的にお会いするなど、一つ一つの出来事を楽しみながら、過ごしておりました。春には歩いて高野川のお花見を楽しみ、孫に会いに広島まで赴くなど、これまでを取り戻すような回復ぶりで、この時がいつまでも続くと、いつしか思っておりました。

 そして、その気力の陰で、次第に体力が低下し、とうとう動けなくなり入院しました。苦しい息づかいにあえぐ父の傍らで、家族が涙を流しても、本人は決して泣きませんでした。痛みをとる方法が見つかってからはその表情が和らぎ、数日後の日曜日の午後、家族がすべてそろうのを待っていたかのように、みんなが賑やかに談笑している中で、とても穏やかに息を引き取りました。

 看取りのお医者様がそっと瞼を開いたとき、左の眼からぽろぽろっと涙が落ちたそうです。それは、うれし涙だったのかも知れません。

 今、微笑む顔で、眠っています。今頃天国で、多くの友と再会し、にぎやかに談笑していることでしょう。そして、天上から、わたしたちを見守ってくれている、そんな気がしています。

 本日は残暑厳しい中、父のためにお越しいただき、本当にありがとうございました。約半世紀の間、教師をつとめ、大好きだった丸太町教会にお集まりいただき、喜んでいることでしょう。どうぞ皆様の上に、大きな恵みがありますように。

 先生のご生前にご家族とどのような交わりがなされていたのかを垣間見るような心に滲みる内容でした。

 大学を卒業して生きる指標を失っているとき、たまたま街中でお会いして「ふらふらとしているのなら、大学に籍を置いておきなさい」と大学院受験を勧めてくれ、私たち夫婦の結婚式の司式をするために松山までお越しくださり、子どもの誕生を喜んでくださり、40歳を前に生き方に迷っていたとき「故郷の松山に戻りなさい」と現在の地を紹介してくださり、その後は毎年のように松山の地まで足を運んでくださいました。先生と共にさせていただいた思い出は尽きません。

 私にとって先生はいつも支えであり、導きの輝かしい星でした。しかし、「その時」、別れの時が訪れました。形あるお方としての先生にお会いすることは二度とできませんが、先生が生前によく言われてた「私の魂は召されても人の心のうちに生きる」という言葉の通り、今新たに先生の存在を感じています。

2013年 7月

3〜7歳の育脳Q &A

「子どもの才能は3歳、7歳、10歳で決まる!」-脳を鍛える10の方法』(林成之著、幻冬舎新書)という本のタイトルに目がとまり、早速に取り寄せて読んでみました。実に示唆に富んだ面白い「脳科学」の本でした。

 著者の林成之先生は脳外科医で、2008年の北京オリンピックの競泳日本代表チームに招かれ、「勝つための脳」=勝負脳の奥義について選手たちに講義を行い、結果に大きく貢献しました。

 本書は、脳医学の知見にもとづき、科学的な「子どもが才能を発揮する脳の育て方」が紹介されています。「ヨコミネ式保育」がいかに「育脳」に役立っているかを教えてくれました。一部を紹介します。

Q:子どもの才能を見つけて伸ばしてやりたいと思っています。いろいろ習い事をさせているのですが、本人はどれもあまりやる気はないようです。どうすればやる気になってくれるでしょう?

A:親が選んだ習い事の教室に連れて行き、「ほら、面白そうでしょう?」と言っても、子どもにしてみれば聞くのも初めてのことばかり。親の言葉につられて「面白そう」と口にすることはあるかもしれませんが、自分が心底、面白そうだと思って、興味を持ち、「やりたい!」と言っているわけではないでしょう。

 習い事は、子どもが自分から興味を持ち、やりたいという気持ちになってから始めるべきなのです。ですから、まず大切なのは、好きになるような環境を身近に用意し、親自身がそれを楽しんで見せること。たとえば音楽なら、楽器を身近に置いて親が楽しそうに演奏してみせたり、一緒によい音楽を聞きながら「すてきな曲だね」と声をかけたりしてみましょう。子どもが「自分でもやってみたい」と言い出したら、存分にチャレンジできる環境を整えてあげてください。

 子どもは、大人が希望するように「あれをやりなさい」「これをやりなさい」と言ってもその通りにはならないものです。まったく興味を示さないものを無理にやらせても、能力を伸ばすことはできません。子ども自身が、何に関心を持っているのか気づけるように導くのが大人の役割なのです。

 ただし、一つ注意点があります。それは、子どもが自分から「やりたい」といったことはきちんと続けさせること。途中で物事を投げ出すのは、脳にとって大変悪い習慣ですから、「やっているうちに嫌になった」などの理由で簡単にやめさせてはいけません。

 とはいえ、「自分で言い出したんだから、黙ってやれ!」と放置するのもNG。

きっかけがつかめずなかなか上達しないこと、うまくやれないことをただ続けても、興味を失って嫌いになるばかりだからです。

 子どもが途中で嫌がるようになった場合は、成功体験をうまく積めるよう「こうやってうまくいった人がいるよ」というように具体例を見せてアドバイスするなど、大人がサポートしてあげる必要があります。何らかの成果が出たら、すかさず「さすがお母さんの子どもね!」というようにほめつぎれば、自我の本能と自信がポジティブに働いて、やる気を起こすはずです。

 子どもが興味を持ち、やる気を出した習い事は、好きなだけやらせてかまいません。喜んでやっているのであれば、できるかぎりよい指導を受けれるよう環境を整え、いわゆる「英才教育」をしてもよいと思います。というのも、子どもは「これだけは自信がある」というものを何か一つでも持っていると、それを支えに困難を乗り越えていけるものだからです。

 親は「これで将来的に大成すれば・・・」などと損得勘定せず、子どもが夢中になれるように手助けをしてあげてください。(128~130ページ)

 「子育て」の目的は子どもの「自立」です。自立とは生まれたときは100%周囲に依存しないと生きてゆけなかった子どもが、成長して大人になって、やがてはほとんどの局面で自分の力で生きていけるようになることです。

 確かな「自己肯定感」、自分は役に立っている、必要とされている、受け入れられている等の思いや、いろんな場面での達成感の積み重ねが、子どもをたくましく成長させていきます。

 二学期もご一緒に「子育て」に関わっていきましょう。

2013年 3月

生きる力を支える基礎学力

今日は卒園式と終業式が執り行われました。年長組は年中組に見送られて、「新しい一歩」を踏み出しました。YYKプロジェクトを通していろいろな思いや感情を一緒に分かち合った年長組の子どもたちと別れることは寂しいことですが、新しい歩みの上に神さまの守りがあるように祈ります。

 子どもは親の思い通りには育ちません。親の期待を無理矢理に押しつけると、こわれてしまうこともあります。

 一人ひとリの子どもには、その子だけのかけがえのない一生があります。基本的には子ども自らが選択して生きていきます。たまたま勉強が好きで、四六時中勉強に熱中する子どもは、それなりの有名大学に行けばいいし、野球やサッカーが好きで死に物狂いで練習に明け暮れる子どもはプロ選手を目指せばいいし、ピアノやヴァイオリンの練習がどんなに辛くても耐え抜く子どもは、その道のプロを目指せばいいのです。

 だからと言って、すべての子どもが目指す道のプロになるわけではありません。しかし、たとえ途中で挫折したとしても、それまでに身についた集中力や忍耐力は必ず「生きる力」として別の面で発揮されます。

 そうした「生きる力」を支える基礎的な能力は大きく別けて三つあります。

 第一は基礎的な体力と運動能力です。

 第二は感じて表現する力です。仲間が何を考えているか、何を感じているかが分かり、ともに喜んだり悲しんだりすることができる力です。さらには他人に自分の思いを的確に伝える力です。

 第三は基礎学力。つまり、読み、書き、計算を基礎とした能力です。

 これらの三つの能力を養うことについては幼稚園で毎日の積み重ねの中で取り組んできました。

 小学校からはこの第三の基礎学力をさらに伸ばしていただきたいと思います。小学校で習う勉強の多くは、子どもが生活の中で見たり、聞いたり、触れたりするものが素材となっています。だから学校で新しく習う教材でも、子どもの普段の生活の中で予備知識や経験があれば、理解が早く、容易に忘れることはありません。

 たとえば時間についての学習のとき、起床・食事・入浴・就寝が毎日ほぼ同じならば、時計の読み方、計算の方法はさほど難しいことではありません。

 漢字を覚える場合も同じです。本読みが好きな子どもは自然に漢字に親しんでいます。幼稚園では書くことはしていませんが、多くの漢字を記号のように読めるようになっています。筆順さえ教えてもらったらすぐに書けるようになります。小学校に入っても幼稚園で身につけてきた「本読み」の習慣を続けてください。

 高学年になると地理や歴史を習います。親も好奇心をいっぱいもって子どもとかかわってください。家の中に日本地図や世界地図が貼ってあって、日頃の会話の中で、あちこちの地方や国のことが話題になり、その場所を地図で確かめてみるのが当たり前になっている家庭では、地理の知識を自然と身につけてゆきます。休日に子どもたちとドライブをしたとき、外に見える景色についていろいろと教えてください。あの工場は何を生産しているところか、峠を越えると川の流れはどのように変わっているかなど。いろいろな場面で楽しい知的な刺激をたくさん提供してください。

 小学校低学年の間は、子どもたちは親とのかかわりを積極的に望んできます。小さい出来事でも、子どもが達成して喜んでいることについては一緒に喜んでください。たとえ失敗しても決して怒鳴りつけるのではなく、いたわりや慰めのこもった激励の言葉を送ってください。子どもといっぱい対話をしてください。子どもにとって家庭が一番居心地のよい場所であることを願っています。

 さらにお願いしたいことは、子どもを叱るとき、子どもが傷つくような言葉づかいをしないことです。「なんべん言わせるの」「ぐずぐずしない」「またこぼしている」「勉強したの」「あほやね」等の否定的な言葉づかいです。これらの言葉づかいの主語は「あなた」です。叱るとき、主語を「あなた」にしないで「私」「お母さん」に置き換えます。「(おかあさんが)これで注意するのは三回目だよ」「分かってくれないのは(おかあさんは)悲しいなぁ」と、子どもは母親の心情を訴えられると反発しにくくなります。「あなた」が主語になっている否定的な言葉づかいを親は特別な深い意図を持って言っているわけではないのですが、受け止める子どもにとってはつらい言葉です。

 毎日少しずつ勉強を続けたことで、今はここまでよくなったことを家族みんなで喜び合うことが子どもの学力を確実に伸ばしていく大きなカギになります。

2013年 1月

子どもの「やる気」

三学期は体操発表会、そして年長組の子どもたちによるレスリング大会とリレー大会と、大きな行事があります。

 子どもは「けんか」をすることが大好きです。「戦いごっこ」も面白いのですが、もっと面白いのは、お互いがつかみ合い、体をぶつけ合う本気のけんかです。

 しかし、幼稚園という集団の場では、つかみ合いのけんかは許されません。つかみ合いの場面になると、必ず安全のために止めに入ります。

 子どもの「けんか」にはこれといった言葉で説明できるような明らかな理由はありません。ともかくもカッとなって、腹が立って思わず手を出すのです。途中で止められたのでは腹の虫がおさまりません。中途半端に終わってしまった不全感だけが残ります。

 「ヨコミネ式保育」の創始者である横峯先生はけんかの意義を日頃から感じていました。けんかにより悔しさを我慢したり、相手に対する思いやりや優しい気持ちが育つと思っていました。しかし、無制限にけんかをさせるわけにはいきません。けんかの事前予防に何かないかと考えました。

 そこで「相撲」を考えましたが、「相撲」はお互いが立ったままで闘うので、投げられたり、倒されたりしたときの段差が大きく、怪我をする可能性があります。そして思いついたのがレスリングです。「ルールに従って戦い、相手の両肩を地面につけたほうが勝ち」とするレスリングです。「とことんやってもいいけれど、これ以上やると相手がけがをする」と、レフリーが勝負を見極めるのです。

 「ヨコミネ式子どもをやる気にさせる4つのスイッチ」があります。1:子どもは競争が大好き。2:子どもはよく真似をしたがる。3:子どもは自分にできそうなちょっとだけ難しいことをしたがるが、できそうにないことは絶対にしない。4:子どもはほめられるよりも、できたことを認めてあげるとやる気がでる。

 「レスリング」と「かけっこ」は「子どもは競争をしたがる」のスイッチをオンにするひとつの効果的な機会です。

 子どもは競争をさせると、とても盛り上がります。ひとりでかけっこをしても、跳び箱をしても、面白くはありません。 けれど、かけっこでも跳び箱でも、何人もの同じ年齢の子どもたち同士で競争をさせると、勝った子どもは喜び、負けた子どもは悔しがり、涙を流す子どももいるくらいです。

 「負けた子どもがかわいそう!心が傷つくからなるべく競争させない」という考え方もありますが、「ヨコミネ式保育」はそのように考えません。

 勝てばうれしい、だからもっと頑張りたいと思い、負ければ悔しくて涙を流すだから次はどうすれば勝てるか考える、負けてたまるかと頑張る、すでに「やる気」のスイッチが入っているのです。

 私たち大人はとかく「競争は子どもをだめにする」と考えがちなところがあります。負ければ心が傷つくのではないか、劣等感が植え付けられて、逆に「やる気」を失うのではないか、勝てばおかしな優越感を持って天狗になるのではないか、自信過剰になるのではないかと心配してしまいます。

 しかし、心配にはおよびません。大丈夫です。子どもたちの競争は、大人の競争とは異なります。勝つために「ズル」も「足の引っ張り合い」もしません。

 子どもは「強さ」に単純にあこがれます。「できる子どもにあこがれ、自分もそのようになりたい」と思うのが子どもの世界の競争心です。

 負ければ子どもによっては涙を流しますが、「あいつをどんなことをしてでも引きずり下ろしてやろう」とは思っていません。また一時的には傷つくかも知れません。

 しかし、それでいいのです。そういう感情は人間が生きていく上で乗り越えていかなければならないものです。子どもの頃に大いに体験しなければならない感情です。

 負けた気持ちよりも、「成長したい」「できるようになりたい」「一番になりたい」と思う気持ちのほうを強く感じて、「やる気」のスイッチが入ります。

 三学期は子どもがぐっと伸びる時期です。「成長したい」という子どもの気持ちを信じて、見守りたいと思います。

2012年

2012年 12月

サンタクロースっているんでしょうか?

幼稚園の2学期は本日で終わりです。20日に松山市民会館中ホールで開かれた「クリスマス会」は、いかがでしたか? 子どもたちの成長ぶりに感激されたのではないでしょうか。

 私たちには計り知れない神様の思いが働き、子どもが私たちを両親として選んで、私たちのもとに最高のクリスマスプレゼントとして贈られたのだと思います。

 昨日のクリスマス会で紹介された「ニューヨーク・サン新聞社」の社説を改めてここに紹介させていただきます。

 「サンタクロースなんていないんだという、あなたのお友だちはまちがっています。きっと、その子の心には、いまはやりの、なんでも疑ってかかる、疑り屋根性というものが、しみこんでいるのでしょう。

 疑り屋は、目に見えるものしか信じません。

 疑り屋は、心の狭い人たちです。心が狭いために、よく分からないことが、たくさんあるのです。それなのに、自分のわからないことは、みんな嘘だと決めているのです。・・・(中略)

 私達の住んでいる、この限りなく広い宇宙では、人間の智恵は、一匹の虫のように、そう、それこそ蟻のように、小さいのです。その広く、また深い世界を推し量るには、世の中のことをすべてを理解し、すべてを知ることのできるような、深い智恵が必要なのです。

 そうです。サンタクロースがいるというのは、けっして嘘ではありません。この世の中に、愛や、人への思いやりや、真心があるのと同じように、サンタクロースもたしかにいるのです。

 あなたにも、分かっているでしょう。世界に満ち溢れている愛や真心こそ、あなたの毎日の生活を、美しく、楽しくしているものだということを。

 もしもサンタクロースがいなかったら、この世の中は、どんなに暗く、寂しいことでしょう。 あなたのようなかわいらしいこどもがいない世界が、考えられないのと同じように、サンタクロースのいない世界なんて、想像もできません。

 サンタクロースがいなければ、人生の苦しみをやわらげてくれる、子どもらしい信頼も、詩も、ロマンスも、なくなってしまうでしょうし、わたしたち人間の味わう喜びは、ただ目に見えるもの、手で触るもの、感じるものだけになってしまうでしょう。・・・(中略)

 サンタクロースがいない、ですって? とんでもない!嬉しいことに、サンタクロースはちゃんといます。それどころか、いつまでも死なないでしょう。

 一千年のちまでも、百万年のちまでも、サンタクロースは、子どもたちの心を、いまと変わらず、喜ばせてくれるでしょう。」(『サンタクロースっているんでしょうか??』偕成社より引用)

 「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(新約聖書コリントノ信徒ヘノ手紙第一13章4~7節)

 わたし達親は、子どもをこのように受け入れています。

 そして、保育の現場でも教職員はこのような思いを抱きながら子どもたちを受け入れています。

 愛は見えません。真心も、思いやりも、目には見えません。

 けれども愛や真心、思いやりが子どもに、夫に、妻に向けられたときに、不思議と心が暖かくなり、心が踊り出し、「私を思ってくれている人に、どのよう応えようか、どのようにして喜んでもらおうか!」と思います。

 そしてさらには子どもたちが私たち親や保育者に向けてくれている思い、何の疑いもなく全面的に寄せてくれている信頼感が、私たちの心を動かします。

 だから昨日は子どもたちを見ていて涙が溢れ出てきたのだろうと思います。

 目には見えない愛や真心や思いやりは、人を動かす強い力を持っています。

 こんなことを昨日のクリスマス会で新たに気づかせてくれた子どもたちに感謝です。ありがとう!

2012年 6月

「助けて!!」

昨年の3月11日、私たちは大きな衝撃を受けました。日本中のみんなが、あの日、つまずきました。「なんで、こんなひどいことが起こるんだ!神も仏もありゃしない!」と思いました。

 私は昨年の5月末に仙台空港近くの中学校に一週間だけ支援に入りました。一人ひとりの生徒にどのような支援が必要とされているかを知るために、6人の県外のカウンセラーが6週間かけて全校生徒180人の面接をしました。

 その学校では半数近くの家が津波の被害を受けていて、そのうちの三分の一の家が津波で流されるか、住めない状態になっていました。「小さいときから、自分の小遣いで少しずつ買っていたものが、全部、一瞬のうちに流された!」とうつむきながら小さな声で訴える生徒に、返す言葉がありませんでした。

 今年の3月末と、先週に、同じ場所ではありませんが、被災者とお話しをする機会を与えられ、いろいろと考えさせられました。

 東日本大震災以来、「絆」という言葉をよく聞くようになりました。「絆」の元々の意味は「馬を縛りつける綱」です。つまり、否応なしに束縛されることです。

「ある地域の住民の絆が固い」とは、その地域の住民は何かにつけて縛られていて、例えば「何月何日は総出でどぶ掃除をします。」となれば、必ず出なければならず、また冠婚葬祭の手伝いもしなければならない。そういうことでは「絆」は煩わしい面倒な束縛でしかありません。 しかし、その普段はうるさくて面倒な「絆」が、今回の震災では大きな役割を果たし、お互いが助け合って困難と闘い続けています。

 「お役に立ちたいのですが、何をすればいいですか?」と尋ねました。「特にこれといったことは何もありません。ただ私たちのことを覚えていてください。」が答えでした。私の知っている東北の皆さんはなかなか「助けて!」とは言いません。迷惑をかけたくないと思われているようです。

 確かに、私たちは他人の「助けて!」という声はあまり聞きたくはありません。なぜなら深い関わりを持ちたくない、傷つけられたくない、面倒に巻き込まれたくないと思っています。

 けれども私たちは「ひとり」では生きてゆけません。一人ひとりが生きていくために、「私の個人的な事柄」に関わってくれる赤の他人を必要としてます。食べるための食料を作ってくれている人たち、ゴミを回収してくれる人たち等、何かと私事に関わってくれる赤の他人がいて、そんな人たちと「社会」を作っているんだと改めて思いました。

 そして、こんなことも思いました。幼稚園もひとつの社会であり、お互い、何かの縁で赤の他人同士が集まっていて、お互いの「私事」に関わり合っています。

 だから、そんな私たちは、本当に困ったときは「もう一人ではやってられない、助けて!」と声を出すところから、本当の意味での「絆」が作られていくのだろうと思います。

 聖書の言葉の中に、「わたし(神)の力は弱いところにこそ働く」と言います。自分の弱さを見せてもいいのです。「助けて!」という告白は、「わたしは生きていきたい!」という告白でもあるのです。 私自身も「助けて!」という告白をしながら、他人の「助けて!」という声を聴き取っていく者でありたいと願っています。

2012年 1月

できない子は一人もいない

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

 大勢の皆さんから年賀状をいただき、ありがとうございました。本来ならばお一人ひとりに御礼をお伝えしなければならないのですが、この手紙で御礼を申し上げます。

 クリスマス会では皆さんのご協力を感謝いたします。「撮影機材持ち込み禁止」という私の願いを受け入れてくださり、ありがとうございました。お蔭様で、会場と子どもたちが一体となった環境を整えることができ、保護者の皆さんに子どもたちの成長した姿をお見せすることができたのでは思います。うさぎ組も年少組も、年中組も年長組も、当日が最高の出来でした。子どもたちの集中力に感服しました。

 特に年長組の「宇宙戦艦やまと」の合奏は子どもたちの持つ可能性の奥深さを教えられました。子どもたちに対する関わりの工夫次第で、子ども一人ひとりの能力は存分に引き出されるということを改めて教えられました。

 「信じる」、これがクリスマスの伝える大切なメッセージのひとつです。教師たちにとっては「子どもをどこまでも信じる」ということです。 

 YYプロジェクト(ヨコミネ式保育)で「できない子は一人もいない。ただ時間のかかる子どもはいる」と、繰り返し教えられています。

 教師たちにとっては毎日が試練でした。子ども一人ひとりと向かい合って、この子どもにはどのような関わり、声がけが必要なのか、悩む日々でした。

 子ども一人ひとりの現状を把握し、個人個人にあった「ちょっとだけ難しいこと」を設定し、関わりを持ちました。

 もちろん、すべてのことがうまくいったわけではありません。その子どもに対する見立てが違っていたこともありました。「三日間、同じことをやって、子どもが変わらなかったら、別のことを考える」、これもYYプロジェクトが教えることです。

 教師たちの間で、何度も何度も話し合いました。結果だけを追い求めていないか、無理な課題の押しつけになっていないか、子どもが喜ぶ「ちょっとだけ難しい」課題を提供できているか・・・。

 「今日はここまでやってみよう!」と、その子の手が届く目標を示すことができたときは、子どもの目が輝きました。「もっとやりたい!」と逆に子どもの方から積極的に求めてきたときが、「やった~!」と先生たちの「喜び」のときでした。

 その子のつまずきはどこにあるのか、どこまでさかのぼれば解決の糸口が見つかるのか、そのために準備した教材に無駄はないか・・・・担任が一人だけの問題として抱え込むのではなく、担任一人の問題は教職員全体の問題として、預かり保育と学童塾が終わってからが、先生たちの話し合いの時間でした。

 私達がもう一つ心がけてきたことは、子どもにもどんどん失敗の経験をしてもらうことでした。

 私達教師はこれまでの経験から、こんなことをしたら、子どもはこんな失敗をするだろうという大体の見通しがつくので、先回りしてあれこれ指示を出しがちです。しかし、百聞は一見にしかずで、子ども自身が失敗の経験から学ばなければなりません。子どもによっては失敗を恐れる余り、動こうとしないこともありましたが、根気よく関わりました。

 集団の中だからこそ、学べることが沢山あります。失敗をして、どうすればよいのか仲間と考え合い、「やった~!」という達成感の積み重ねこそが、これからの子どもたちに力を与えると思います。

 もう10年もすれば、子どもたちは自立の時を迎えます。そして社会人になるともっと生きにくい環境が待っています。そんな社会にあっても臆することなく自分をアピールし、表現し、情報を取捨選択して分析し、どのような道を歩んで行けばよいのか、自分で判断することができる強さと賢さを備えた人間として育ってほしいと願っています。

 今年度も保護者の皆さんのご協力とご理解をよろしくお願いします。

2011年

2011年 10月

運動会

「パワー 全開!勝山キッズ!!」は今年の運動会のスローガンです。

 2学期が始まって、少しずつ子どもたちはプログラムの内容を体験しています。

 運動会のプログラムは、学年ごとの音楽に合わせてのダンスをする「表現」、かけっこをして順位を争う「個人」、そしてクラス対抗の「団体」があります。

 今年の運動会も昨年同様、「競争」を少し意識しています。運動会で順位をつけることについては、色々な考え方や意見がありますが、YYプロジェクトでは「一番○○、二番○○」と順位をアナウンスします。

 子どもたちは「競争すること」が大好きです。順位がつくのが好きです。順位がつくから頑張れるのです。 YYプロジェクトの創始者の横峯吉文先生は子どもが「やる気」になる4つのスイッチを言われています。

 1.子どもは競争したがる。

 2.子どもは真似をしたがる。

 3.子どもはちょっとだけ難しいことをしたがる。

 4.子どもは認められたがる。

 子どもによっては「悔しい気持ち」を心の内に引っ込めて、何事もなかったかのように、負けても、できなくても、無表情の子どもがいますが、決して「負けてもいい、できなくてもいい」とは思っていません。

 教師はそうした子ども一人ひとりの様子を把握して、ここぞと思うところで「声かけ」をして、子どものやる気を引き出しています。

 競争することで、もうひとつ子どもたちに体験してもらいたいことは、負けて傷つくこと、悔しい思いを持つことです。運動会で「個人対抗」や「クラス対抗」で負けることは、子どもにいろいろなことを教えてくれます。悔しい思いをしたり、恥ずかしい思いをするのがいやで、「運動会は嫌い!、」とダダをこねるかも知れませんが、子どもの背中をソッと押し出してください。

 子どもによっては、走ることではかなわないなら、「読み、書き、計算、ピアニカで一番になろう」と思います。

 このように「悔しい」という思いは、子どもたちにとっては大きな活力になります。

 「子育ての目的」は「子どもの自立」です。幼稚園の時期に「悔しい思い、傷ついた思い」をいろいろと体験して、自分なりにそのような気持ちをどのようにしたら乗り越えられるのか、考え学んでほしいと願っています。

 子どもの世界での競争は、大人の世界のように「死ぬか、生きるか」というような殺伐としたものではありません。

 幼稚園では「勝った!」「負けた!」というのは毎日繰り返されていますが、その勝敗が「妬み」につながることは決してありません。

 負けた相手を「妬む、恨む」のではなく、「自分もあの子のようになりたい!」とあこがれと尊敬の気持ちを持つ場合がほとんどです。

 競争して傷つき、そのまま一生をだめにしてしまった子どもはいません。子どもは本当のところは「たくましい」のです。運動会を楽しんでください。

「立佞武多」について

 年中組による踊り「立佞武多」(たちねぶた)は青森県津軽地方の五所川原市で毎年8月4日に開かれる祭りです。20mもの巨大な山車が運行され、禊ぎ祓い(ミソギバライ)と言って、悪をはらい、除く祭りです。その祭りでは毎年、歌手の吉幾三さんが山車の先頭に立ってご自身が作詞作曲された「立佞武多」を歌って山車を先導します。

その吉幾三さんの歌に合わせて子ども達が力強く踊ります。

 今年の3月11日は私達日本人にとって忘れられない悲惨な出来事が起こりました。私は5月末から1週間、仙台空港近くの中学校へスクールカウンセラーとして派遣され、生徒の面接の手伝いをさせていただきました。

 今でも津波で押し流された石巻の港町、女川に通じる国道沿いの悲劇的な光景と強烈な腐敗臭が忘れられません。

 友人が言いました。「これからは闘いよ!立ち止まったらいかん!立ち止まったら負けよ!」

 この言葉に私は涙してしまいました。逆に私が励まされました。

 子ども達が踊りだす最初に「ヤッテマレ、ヤッテマレ」と声を出しながら集まってきます。この言葉は標準語では「やってしまえ」で、関西弁の「いてこましたれ」が本来の津軽弁の本来の意味に近いそうです。

 東北の皆さんはこれから何年も困難な時間をくぐり抜けていかなければなりません。もちろん私達もできる支援を続けていくのですが、「ヤッテマレ、ヤッテマレ!」と子ども達の踊りの合いの手を入れていただいて、踊りに参加していただき、東北の皆さんへ、そして私達自身に送るエールにできたらと思います。

2011年 7月

夏休みが始まるよ!?

今日で1学期は終わりで、明日から夏休みです。夏休みをどのように過ごすか、いろいろと計画を立てておられると思います。幼稚園の自由登園日や預かり保育を大いにご利用くださり、他の子どもたちと関わる機会をどんどん作ってください。

 自由登園日にはクラスを縦割りにしたり、グループ別にしたりして、普段とは違う子どもたちとの関わりを計画しています。

 幼稚園に登園しない子どもたちは時間を持て余し、多くの場合はテレビ・ゲームにどっぷりになるかもしれませんので、十分にご注意ください。

 長年、子どもたちと関わる現場にいると、この子はおしゃべりが少ないかも、言葉が出るのが遅いかも、言葉の数が少ないかもなど、大丈夫だろうかと心配することがあります。

 あるいは、声をかけても振り向かない、

大きな声で呼びかけるとやっとこちらを向いてくれた、あの子はもう少し喜怒哀楽の表情があってもいいと思うのに多くの場合は無表情、大丈夫だろうか……。

 あの子は落ち着きがない。長い時間、椅子に座っていることができない。自分の興味のない話になると、すっと席を立って自分の好きな玩具のあるところへ行く……大丈夫だろうか。

 この年齢では言葉や運動、情緒面ではこの程度の発達をするでしょう、という大まかな目安はありますが、それはあくまでも目安で、この目安より遅い子どももいれば、逆に早く発達する子どももいます。

 したがって、たいていはあまり心配する必要はありません。毎日が元気で、よく食べて、寝て、元気そうで、活発に動いていて、適当に笑ったり泣いたりしているなら、まずは大丈夫です。

 ところが、この数年、「いや、待てよ!そんなに気軽に受け止めたらだめじゃないかな!?」と、思わざるを得ないような子どもに出会うことがあります。

 その子どもの日頃の生活を保護者の方に聞いてみると、毎日ゲームを2~3時間して、家は寝るまでほとんでテレビがつけっぱなしになっているということです。

 『しゃべらない子どもたち、笑わない子どもたち、遊べない子どもたち-テレビ・ビデオ・ゲームづけの生活をやめれば子どもは変わる』(片岡直樹・山崎雅保共著、メタモル出版)という本を読んで大いに納得するところがありましたので、一部を紹介します。(14頁以下)

 「以下の6つの項目をチェックしてみてください。《1》乳幼児からテレビやビデオに子守させる時間が長かった。《2》朝から晩まで、ほとんどテレビがつきっぱなしの家庭生活である。《3》子どもはテレビのない生活空間をほとんど体験していない。《4》子どもは早期教育のビデオが好きだ。《5》親もテレビ好きで、親のほうこそテレビがついてないと落ち着かない。《6》テレビを消すと、子どもが不機嫌になる。

 以上の6つの項目のうちのひとつでも該当項目があり、加えてお子さんに「言葉の遅れ」や「表情の乏しさ」の傾向が感じられるようなら、今すぐご自宅からテレビ・ビデオを追放して、親子の間で人間的な行きかいをつちかい直すことを考えるべきでしょう。これらの項目に該当する「テレビ依存傾向が強い家庭」では、必然的に、親子や子ども同士が生身でするコミュニケーションや遊びのチャンスが失われます。そんな環境で育つ子どもは、最悪の場合、言葉の出ないまま、外見的には自閉症に似た状態に陥ってしまう危険性があります。

 あるいは言葉に目立った遅れはみられないとしても、コミュニケーション能力全体としての発達が不十分となり、それが原因となって、学齢期にいたってADHD(注意欠陥/多動障害)やLD(学習障害)に似た状態が表面化する危険性があります。また、コミュニケーション能力の未熟は、思春期前後から青年期にまで尾を引きかねない不登校・引きこもり・非行・神経症などの温床となるとも考えられます。」

 小児科医として大勢の子どもたちとの関わりの中から警告されている内容は実に説得力があります。

 子どもが身体と心を親にまかせてくるのは10歳くらいまでです。夏休み中、子どもたちと関わりを持ってください。

 夏休み中も、幼稚園でもお家でも、「お早うございます」「おやすみなさい」の挨拶、早寝早起きを大事な約束事として子どもたちと取り組んでいます。

2011年 6月

レスリングについて / 立腰が大切!

レスリングについて

 幼稚園ではヨコミネ式保育のひとつとして年中組と年長組の男の子たちは「レスリング」をしています。レスリングは格闘技の中で最も安全な競技と言われています。相撲やプロレスだと、ある程度の基礎訓練や経験がないと、怪我をしてしまいます。女の子たちは原則としてやりません。応援する側です。3学期には優勝カップ争奪クラス対抗戦をします。

 男の子たちが手を出し合ったり、言い争いのケンカをしているとき、私たち教師はひどくならない程度のところで止めようとします。子どもたちの側からすれば、勝負がつくまでもっとやりたいのだろうと思います。しかし、教師の立場からすれば勝敗がつくまでケンカをさせておくことはできないのですが、男の子たちは、本能的には取っ組み合いのケンカが大好きで、どこかで自分の持てる力を存分に出してぶつかり、「自分の方が強いのだ」と優越感を持ちたい気持ちがあります。

 そこで男の子同士が一定の決められたルールのもとで力一杯、体と心をぶつけ合う機会としての「ヨコミネ式レスリング」を週に一回、ホールでに行っています。試合開始前はお互いの名前を大きな声で言い、「お願いします」、試合終了後は「ありがとうございました」と、礼に始まり、礼で終わります。

 幼稚園でのレスリングは4m四方のレスリング専用マットの上で試合をします。レフリー(教師)の「よ~い!」の合図で二人の男の子はマット中央に四つんばいになり、お互いのおでことおでこを合わせ、「はじめ!」の教師の合図で始めます。試合中は二人の戦士は立ち上がりません。膝で立ったままです。(立ち上がって動くと、床との落差が大きく、大きな怪我を防ぐためです。)

 戦い方を工夫しながら、相手をマットの上に仰向けに引っくり返し、体や両手で相手の両肩をマットの上に押さえつけたら勝ちです。レフリーは「○○くんの勝ち!」とコールして試合を終えます。

 相手の髪の毛を引っ張ったり、つめを立てる、正面から相手の首に手をかける、服ばかりを引っ張るのは反則です。反則が認められた場合は、「待て!」と大きな声で直ちに試合を中断して、反則を注意して、最初の位置に戻って再開します。

 女の子たちの役目は応援です。女の子たちの「○○くん、がんばれ!がんばれ!」の応援の声に励まされて、応援の力に押されるように、男の子たちはますます頑張ります。

 たとえ相手が自分より大きくても「負けたくない!」。これが男の子たちの本音です。どのように戦えば相手を引っくり返せるのか、子どもたちが考えなければならない工夫です。

 体の大きい子どもが常に勝つとは限りません。技と知恵の勝負です。お家では、ここでこそ親の、特にお父さんの出番です。子どもと取り組みながら技を工夫し合ってください。

 負ける経験も大切です。負けたら「悔しい!」という気持ちをバネして、諦めない心を養ってほしいと願っています。レスリングに負けると涙を流す子どももいますが、「悔し涙」というよりも、「負けた僕をかまってほしい」という周囲への甘えです。レスリングに負けて涙を流すよりも、「次回はこんなふうに工夫して絶対に勝ってやる!」と奮起してほしいと願っています。自分との闘い、そして他者との闘いを繰り返し、勝ち負けの両方を体験することによって、しっかりとした心に育ってほしいと思います。

 「ヨコミネ式子どもをやる気にさせる4つのスイッチ」があります。《1》子どもは競争をしたがる。《2》子どもは真似をしたがる。《3》子どもはちょっとだけ難しいことをしたがる。《4》子どもは認められたがる。レスリングは「子どもは競争をしたがる」のスイッチをオンにするひとつの効果的な機会です。

 「負けた子どもがかわいそう!心が傷つくからなるべく競争させない」という考え方もありますが、「ヨコミネ式保育」はそのように考えません。幼児期に、勝つ喜び、負ける悔しさをきちんと繰り返し味わっていなければ、大人になって遭遇する困難な状況に立ち向かうことはできません。勝った喜び、負けた悔しさがバネとなって、乗り越えるのです。

 私たち大人は負ければ子どもの心が傷つくのではないか、劣等感が植え付けられて、逆に「やる気」失うのではないか、勝てばおかしな優越感を持って天狗になるのではないか、自信過剰になるのではないかと心配します。

 しかし、それらの多くは杞憂です。子どもたちの競争は、大人とは異なります。勝つために「ズル」も「足の引っ張り合い」もしません。子どもは「強さ」に単純にあこがれます。負ければ確かに一時的に傷つくかも知れません。しかし、それでいいのです。そういう感情は子どもの頃に大いに体験しなければならない感情であり、人間が生きていく上で乗り越えていかなければならないものです。

立腰が大切!

 「立腰(りつよう)」という言葉をご存じでしょうか。立腰とは正しい座り方のことで、教育界に大きな功績を残された森信三先生が提唱されました。①腰骨を立てて背もたれによりかからない ②足の裏を床につける ③相手に体を向ける -これらの3点です。

 幼稚園では立腰の大切さを実感して、すでにお気づきのように、年少組と年中組の椅子の背もたれを撤去しました。また年長組の机と椅子は「YYKプロジェクト」のための特別仕様です。椅子に背もたれはありません。

 立腰がしっかりとできている子どもは、しっかりと先生の話が聞けていて、集中していて、理解できています。

 ご家庭でも「立腰」に心がけてください。子どものときからの美しい姿勢」は一生の財産です。

2011年 3月

卒園の日よ!おめでとう

今日は卒園式が執り行われ年少組、年中組の子どもたちに見送られて、年長組の子どもたちは「新しい一歩」を踏み出しました。

 卒園式で次のように子どもたちにお別れをしました。

  贈る言葉

 ご卒園、おめでとうございます。まず最初に皆さんに「沢山の感動をありがとう」とお礼を述べさせていただきます。皆さんとご一緒できたことを本当に嬉しく思います。これから小学校へと新しい出発をします。小学校では楽しいことばかりではありません。つらいことや、悲しいこと、いやなこともたくさんあります。そんなとき、幼稚園でのことを思い出してください。仲間と力を合わせて一所懸命に頑張ったこと、くじけそうになったとき、仲間に励まされて、最後まで諦めず、「こんなことで負けてたまるか」とやり抜いたこと、頑張った自分を思い出してください。小学校、中学校、高校でも、どんどんいろいろなことに挑戦して、新しい知識や経験を積み重ねて、大きくなってください。けれど、頑張りすぎて、少し休みたいなと思ったとき、立ち止まって後ろを振り返ってみたいと思ったとき、幼稚園を思い出してください。幼稚園の先生たちに会いに来てください。

 最後にとても大事な園長先生との約束をここでします。この約束は、いつまでもずっと続く約束です。これからつらいことや悲しいことや嫌なことがが沢山あるでしょう。孤独に押しつぶされそうになるときもあるでしょう。周りの人達から「あなたが悪い、あなたが悪い」と、誰も皆さんの味方になってくれないとき、園長先生を思い出してください。たとえ周りのみんなが「あなたが悪い」と守ってくれないときも、園長先生は必ず皆さんの味方になります。皆さんを守ります。これが、今日、この幼稚園を卒園する皆さんとの大事な約束です。さようなら! そして、ありがとう! お元気で!

 幼稚園に見学に来られた保護者の皆さんからよく受ける質問は、「遊びも重要ではないか?」でした。この場合、「遊び」とは「砂場遊び、ジャングルジム、鬼ごっこ等」のことを言っておられます。

 子どもたちにとっては、読みも、書きも、遊びのひとつでした。砂場やジャングルジムでの遊びは、公園等で家族と一緒に楽しむことができます。しかし、幼稚園という集団の中でこそできること、また幼児期だからこそ覚えることができること、習慣化することができることを「遊び」として体験してきました。一般の生活では体験できないようなこと、たとえばブリッジ歩きのような家庭では絶対にやらないようなことをしてきました。これは「逆さ感覚運動」といって、自分の体が逆さまになったときに、どうやって操るのかという感覚の獲得でした。この感覚は幼児期にだけ身につけることができるのであり、一度この感覚を身につけると生涯身につけることになります。家や公園での遊びとは違う「遊び」を毎日、少しずつ、繰り返してきました。

 ブリッジ歩き、ブリッジ回転、壁逆立ち、壁逆立ち横歩き、三点倒立、逆立ち歩き、これらが「やれば、できるようになった」という喜びを体験することが、幼稚園での「遊び」でした。できるようになることが楽しいから、幼稚園でも、お家でも、どんどん挑戦しました。

 小学校のカリキュラムでは、ブリッジ歩きや逆立ちをする機会は少ないかも知れません。しかし私達が子どもたちに望んだことは、「最初は、絶対にできないと思ったことも、やれば、できる」という経験を数多く積み重ねるということでした。小学校に入学してからも、このインプットされた経験は消えることはありません。この経験はひとつの大きな基盤です。だから、子どもたちが小学校の場面で、弱気になったり、くじけそうになったときに、「幼稚園の時は頑張ったじゃない。やれば、できるよ!」と、ちょっとだけ後押しをしてあげてください。きっと子どもたちは幼稚園のときのことを思い出し、歩き出すだろうと思います。

 YYKプロジェクトの目的は「自立」の力を養うことです。自分のことを自分で成し遂げて、前に進んでいく力を身につけることです。できれば周囲の人達を喜ばしてほしいとも願っています。社会に出れば、できないことも当然あります。そんなときも、幼稚園での「やれば、できた」という経験の積み重ねが数多くあるがゆえに、「こんなことで、負けてたまるか」と子どもたちに乗り越える力が沸いてくると信じています。幼稚園の時代に悔しい涙を一杯流し、時には「涙なんか見せるものか」と涙をこらえて、「今度こそ、勝つんだ」という強い気持ちを、仲間と一緒に何回も分かち合いました。 この経験が辛いことを跳ね返す「バネ」となって、自立の道を歩んでくれると思います。これからも子どもたちを信じ、子どもたちを見守ってください。

2011年 1月

もうすぐ卒園!!

新年あけまして、おめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。沢山の年賀状をありがとうございました。本来なら年賀状をいただいたお一人おひとり全員にお礼状をだすべきところですが、この場を借りて御礼申し上げます。

 年長組の子どもたちにとっては卒園まであと3ヶ月余りとなりました。4月からは小学校です。

 「ヨコミネ式保育」(YYKプロジェクト)を取り入れて三年が経とうとしています。現在の年長組の子どもたちが、年少組の6月に最初の歩みが始まりました。1年目は12月までは「かけっこ」と「体操」を毎日の保育の中で20分ずつ行ってきました。

 そして心がけてきたことは「挨拶」です。

・朝の「お早うございます」

・「かけっこ」と「体操」が始まる前の「よろしくお願いします」、終わりの「ありがとうございました」

・お弁当時の「いただきます」「ごちそうさま」

・帰りの「さようなら」

 これらの挨拶を毎日、根気よく、たとえ子どもたちの方から応答はなくても、教職員は笑顔で挨拶を繰り返しました。

 これだけのことで、半年間で随分と幼稚園全体の雰囲気と子どもたち一人ひとりの様子に変化が見られるようになりました。

 その変化が何であるのか、なかなかストレートにお伝えすることはできませんが、園全体に「メリハリ?!」が生れたように思います。

 たとえば、体操が始まる前に、教師が「これから体操を始めます。よろしくお願いします。」と声かけをすると、子どもたちが「お願いします」と挨拶をします。この挨拶を境に、その場に緊張感が生れて、どの子どもたちもまず一斉に教師を注目をするようになりました。

 また2階ホールで行われる毎週月曜日の「献金礼拝」や毎月の「誕生会」への集合も段々と早くなりました。

 私達、教職員にとって、YYKプロジェクトを導入してからの三年間は、「楽苦しい」(タノクルシイ※楽シイケレド苦シイ、苦シイケレド楽シイ)日々の連続です。

 私達が日々の保育の中で心がけていることは、「その子にできることを環境として用意する、できたら褒める、できることは面白い、面白いから自分でもっとやりたくなる」という一人ひとりの子どもにとって、その時その時に必要とされると思われる環境作りです。

 子どもたちの目を見張るような成長に驚かされ、思わず嬉しくなって涙を出してしまう場面も多くありました。

 そして、昨年のクリスマス会での年長組の子どもたちが演じた「降誕劇」と「ありがとう」の合唱、「トルコ行進曲」の合奏には本当に心を動かされる感動をもらいました。「YYKプロジェクトを通して子どもたちと関われてよかった!!」と心の底から思いました。

 いよいよYYKプロジェクトを三年間体験した子どもたちが、あと三ヶ月で卒園を迎えます。残された保育時間の中で、私達が大事にしたい子どもたちとの関わりの目標は以下の四点です。

【1】人の話を聞く

【2】自分で考え自分で行動する

【3】挨拶をする

【4】はきものを揃える

 お家での関わりも以上のことを留意していただきたいと思います。

 食事後の「ごちそうさま」をして自分で食器を片付ける、こぼしたら自分で拾う・拭く、朝起きるときは自分で起きる(親に起こしてもらわないで目覚まし時計を使って自分で起きる)、夜寝る前に、翌日の着るもの、持っていくものを自分で用意する、親に「おやすみなさい」の挨拶をして寝る、自分の部屋の整理・整頓・掃除をする、…以上のようなことを少しずつ心がけていただき、小学校入学の準備を始めていただきたいと思います。

2010年

2010年 12月

子どもたちの自立のために

幼稚園の2学期は本日で終わりです。今学期も保護者の皆さんのご協力ありがとうございました。

 幼稚園での「クリスマスの集まり」は、どんな感想を持たれたでしょうか。

 うさぎ組のリズムプレイで見せてくれた動物たちの動きに会場は笑みがこぼれ暖かい雰囲気になりました。

年少組は二つのクラスが合同で降誕劇を見せてくれました。大勢の観客を前にしながら堂々としていました。また初めてのピアニカ演奏そしてリズムバンドも一人ひとりが楽しみながら全員で演奏している姿に子どもたちの成長を見ました。

 年中組の体をゆらしながらの楽しそうなピアニカ演奏、子どもたち自身が考えた振り付けも入ったリズムプレイに思わず見入ってしまいました。

 年長組のこどもたちによるイエス・キリストの降誕劇、ピアニカの2部演奏『歓喜(ヨロコビ)の歌』と『トルコ行進曲』の合奏には驚かれたことと思います。また「ありがとう」の合唱は聞き入る私達の心に響き、逆に子どもたちに「ありがとう!」の言葉を贈りたいと思います。

 子どもたちの持続する集中力、真剣な眼差し、お互いがお互いの動きを見ながら、そして配慮し合いながらまとまっている様子、ひとつひとつに感動しました。

 YYKプロジェクトを導入して2年半が経とうとしていますが、毎日の少しずつの積み重ねの成果を見事に子どもたちは見せてくれました。

 ヨコミネ式の創始者の横峯先生は、「子どもたちの目が輝く保育園を作りたい」という思いから、今の保育のやり方を始めました。

 始めは遊びや運動を中心にしていましたが、意外なことに面白い仕掛けさえ作れば、子どもたちは、勉強にも夢中になって取り組むことが分かりました。

 横峯先生が目指していることは、子どもたちが将来、人間的にも経済的にも、自立して生きていけるようにしてあげることです。

 自立のために必要な力として「学ぶ力」「体の力」「心の力」の三つを重視しています。

 「学ぶ力」とは、文字通り、自分で学んでいく力です。具体的には、「読み、書き、計算(そろばん)」を通じて基礎学力を高め、「自学自習する習慣」を身につけます。「体の力」は、80年、90年にわたって人生を生きていくための基礎となる体力や運動神経です。「心の力」は、将来出会うであろう様々な困難・試練を乗り越えるための精神的な力です。他人を思いやる気持ちをも含まれています。

 横峯先生は、子どもたちが夢中になれる「楽しい仕掛け」をたくさん作って、この3つの力を身につけてもらいたいと願っています。そして、さらに先生の夢は「すべての子の、すべての夢を実現させてあげる」ことです。

 クリスマス会の準備の時間の中で、そして普段の保育の中で、私達教師は子どもたちから、たくさんのことを学ばせてもらいました。

 「落ちこぼれる子ども」や「できない子ども」はいません。

 しかし時間のかかる子どもはいます。そのような子どもとは個別に関わりました。短い時間でも先生が一緒に手を添えてくれることは、子どもにとってとても嬉しかったようです。少しずつできるようになりました。

 できるようになると、子どもに笑顔が生れました。「やる気」が生れました。

 時間はかかりましたが、いったん「やる気」のスイッチが入ると、子どもはものすごい勢いで伸びていきます。

 私達が気をつけたことの一つに、「その子のレベルに合った課題と環境を提供する」ことでした。時間をかければ、どの子もみんな例外なく伸びていきます。 クリスマスを迎える私達は、改めて「信じる」ということの大切さを、子どもたちから教えてもらいました。

メリークリスマス!

2010年 10月

運動会

今週10月14日(木)は運動会です。今年は地方祭の慌ただしさが一段落しての開催にしました。

 本日、運動会のプログラムを配布いたしました。教職員が総出で関わった手作りです。

 「~君こそスター! オー! かがやけ勝山キッズ~」は今年の運動会のスローガンです。

 9月半ば頃、園庭の照り返しが和らぎだして、少しずつ子どもたちはプログラムの内容を体験しています。

 音楽を流すのが担当の私は、子どもたちと教師の関わりを見ながら、「今年の運動会は、例年とはちょっと違うかも?!」

とワクワクする気持ちを抱きながら、本番を楽しみにしています。

 (余談になりますが、今年は運動会に小さな革命が起こりました。例年はプログラムごとに流す音楽をカセットに一本ずつ録音して、競技のたびにカセット機器に入れ換えて流していたのですが、今年は手の平に収まるipodに運動会で使用する音楽のすべてが録音されていて、しかもipodの画面に曲目が表示されるのです。音楽担当の私はこの便利機器の操作に最初は戸惑ったのですが、いまでは何とか扱えるようになりました。しかし、難点は表示文字が小さいことです。老眼鏡をかけながら、目を細めている姿を度々お見せすることになりますが、あらかじめご容赦ください。)

 運動会のプログラムは、学年ごとの音楽に合わせてのダンスをする「表現」、かけっこをして順位を争う「個人」、そしてクラス対抗の「団体」があります。 今年の運動会は「競争」を少し意識しています。運動会で順位をつけることについては、色々な考え方や意見がありますが、「一番○○、二番○○」と順位をアナウンスします。

 子どもたちは「競争すること」が大好きです。順位がつくのが好きです。順位がつくから頑張れるのです。競争することで子どもは伸びていきます。

 毎日、子どもたちは園庭を走り回っていますし、男の子たちは「レスリング」が大好きです。勝つと「ヨッシャッ~」とガッツポーズをし、負けた子どもは悔し涙を流しています。

 子どもたちは「走る」ことや「レスリング」が好きなのではなく、勝負をすることが好きだから、夢中になってやっているのです。

 一人で走ってもつまりません。二人、三人と走って競争するから本気になれるし、楽しいのです。

 レスリングで「友だちに勝ちたい」から負けたら悔し涙を流し、今度はどうやったら勝てるか、強い友だちのやり方を見ながら考えているのです。

 他の友だちが逆立ち歩きができる、三点倒立ができる、ブリッジ回転ができる、「自分もできるようになりたい!」と思うのが子どもたちの本能です。

 子どもによっては「悔しい気持ち」を心の内に引っ込めてしめて、何事もなかったかのように、負けても、できなくても、無表情の子どもがいますが、決して「負けてもいい、できなくてもいい」とは思っていません。

 教師はそうした子ども一人ひとりの様子を把握して、ここぞと思うところで「声かけ」をして、子どものやる気を引き出しています。

 競争することで、もうひとつ子どもたちに体験してもらいたいことは、負けて傷つくこと、悔しい思いを持つことです。運動会で負けることも、レスリングで負けることも、子どもにいろいろなことを教えてくれます。悔しい思いをしたり、恥ずかしい思いをするのがいやで、「運動会は嫌い!、レスリングは嫌い、体操は嫌い!」とダダをこねるかも知れませんが、そういう体験は子どもたちを成長させます。

 ある子、は悔し涙を流しながら「今度こそは」と練習に励むようになります。ある子は、走ることではかなわないから、「読み、書き、計算、ピアニカで一番になろう」と思います。

 このように「悔しい」という思いは、子どもたちにとっては大きな活力になります。

「子育ての目的」は「子どもの自立」です。幼稚園の時期に「悔しい思い、傷ついた思い」をいろいろと体験して、自分なりにそのような気持ちをどのようにしたら乗り越えられるのか、考え学んでほしいと願っています。

 「泣いている子どもがかわいそう!なんとか慰めてあげたい!」と思うのが親心ですが、ここでぐっと踏ん張って、我慢して、子どもの将来を見据えて、見守ってください。

 子どもの世界での競争は、大人の世界のように「死ぬか、生きるか」というような殺伐としたものではありません。

 幼稚園では「勝った!」「負けた!」というのは毎日繰り返されていますが、その勝敗が「妬み」につながることは決してありません。

 負けた相手を「妬む、恨む」のではなく、「自分もあの子のようになりたい!」とあこがれと尊敬の気持ちを持つ場合がほとんどです。

 競争して傷つき、そのまま一生をだめにしてしまった子どもはいません。子どもの本当のところは「たくましい」のです。運動会を楽しんでください。

2010年 7月

言葉とこころ / お泊まり保育

言葉とこころ

 今日で一学期は終りです。2階の遊戯室に全園児が集まって「終業式」をしました。1学期間の保護者の皆さんのご協力に感謝いたします。

 幼稚園は子どもたちが出会う初めての社会です。仲間と出会い、共に喜び、共に泣き、いろんなことを学び経験する場所です。10年後には、子どもたちは自立のとき、ひとり立ちのときを迎えます。自立の道は平坦ではありません。困難にぶつかっても、簡単にはあきらめず、自分で考え、自分で乗り越えていく、そんな子どもに成長してほしいと願っています。幼稚園の間にしっかりと根を張ってほしい。どんなに強い風が吹いても、しなやかにゆれる木々のように育ってほしい。 そんな願いを込めて、保育の中にYYKプロジェクトを取り入れて3年目になりました。

 「かけっこ・体操・読み・書き・数字・音楽」の毎日の繰り返しを通して、子どもたちが確実に変化している、成長している、やる気が出ている、集中力がついてきていることに、私達現場の教師たちは日々新鮮な感動と驚きを与えられています。

 7月に入って幼稚園の来年度新入園児の募集活動が始まり、多くの方々が幼稚園に見学にこられました。皆さんが驚かれていたことは、年少の子どもたちも静かに落ち着いて机に座っていることでした。入園当初の4月、5月は年少組の部屋はざわついていたのですが、確かに6月中旬あたりから全体的に落ち着いた雰囲気になりました。

 こうした子どもたちの落ち着きは言葉の獲得と関係しているということを、先日の新聞のコラム欄で知らされました。

 「今の子どもはキレやすいとよく聞く。「心の教育」の必要性が言われて久しい。そこで、子どもの心のつくられ方を言葉の視点から考えてみたい。

 赤ちゃんは通常、生後1年前後で言葉を理解し始め、3歳半前後には簡単な会話ができるようになる。特段の訓練をするわけでもないのに、言葉を覚えていく。幼児のこの能力は神秘的ですらある。・・・こうした言葉の習得は、心が生れてくる過程と重なると私は考えている。私たちは心で考える。そのとき言葉を使っている。言葉がなければ考えることはできないだろう。心の定義にもよるが、心は言葉によって形づくられていると考えてよい。その意味で、言葉は眼に見えない心に具体的な「形」を与えている。言葉は「心の容(い)れもの」と言いたい。喜怒哀楽などの感情は動作や表情で伝えられても、複雑な心のありようは言葉でなければ表現できない。・・・心は言葉で満たされている。とすれば、幼児が真似て覚える周りの言葉のあり方が何より大事になるだろう。極論すれば、人と言葉の環境が、幼児の心をつくる決定的な要因である。今、子どもの心が危うくなっているとすれば、それは取り巻く言葉の貧しさと根っこのところで深く関わっているだろうと。テレビや商業メディアで流されている言葉の影響を思わずにはいられない。人は言葉によって考え、自己を表現し、他者と交わる。人間の関係性にも言葉が深くかかわっている。言葉の変容には社会そのものまで変質させていく力がある。

 「心の教育」の重要性を文部科学省や教育関係者はしきりに説く。しかし、どうすれば確かな「心の教育」ができるのかは必ずしも明らかではない。私は「言葉の教育」がより本質的であると考える。確かな言語能力を身につけ、適切な言葉で自己を表現できる子どもは自己意識も確立し、他者との関係性も豊かになる。そんな子どもは簡単にキレることはないだろう。・・・」

(7月4日愛媛新聞第1面「道標」より抜粋・引用)

 全文を掲載できないのが残念ですが、この記事を読んで大いに納得させられました。「ふーみん絵本の森」の皆さんによる「読み聞かせ」や教師たちの毎日の読み聞かせ、また子どもたち自身の毎日の「読み」などを通して、「心の容(い)れもの」のとしての言葉が少しずつ豊富になるに連れて、子どもたちの心は安らかになっているのだろうと思います。

 夏休み期間中、多くの子どもたちが自由登園で幼稚園にやってきます。いままでと同じような毎日の繰り返しを午前中は続けます。そして午後にはたっぷりと自由遊びを楽しんでもらいます。砂場での仲間との山作り、トンネル作り、川作り、・・・楽しい時間をどのように過ごしたのか、言葉で表現することによって、楽しさや喜びの体験は形あるものとなります。子どもたちの成長が楽しみです。

お泊まり保育

 今週末に年長組の子ども達は「お泊まり保育」を体験します

 「お泊まり保育」は準備する幼稚園側にとっては大変な行事のひとつですが、子ども達にとっては日常性の延長に過ぎません。子ども達はこころも体も大きくなったので、「お泊まり保育」を楽しむことができます。「お泊まり保育」のために、子ども達は特別な心の準備はいりません。おねしょをしてもいいですし、不安で泣いてもかまいません。ありのままの自分をさらけ出しながら、親と離れて、子ども達同志が、いつも慣れ親しんだ園舎で、一晩を過ごします。

。 仲間との夕食、夜の園内探検、皆と一緒のごろ寝、早朝の城山への散歩・・・わずか、一晩の経験ですが、子ども達の内面の変化と成長は目を見張るものがあるだろうと思います。「行ってらっしゃい!いっぱい、楽しんでおいで!明日、お昼に、ちゃんと迎えに行くからね!」と子ども達を送り出してください。あたたかい言葉に送り出された子ども達は、安心して親と離れることができます。

2010年 5月

お弁当の始まり / 良い子?悪い子?

お弁当の始まり

 新学期が始まり1ヶ月が経とうとしています。子供達のお家での様子はどうでしょうか。特に年少組の子供達は幼稚園を楽しんでいるでしょうか。

 最初は教師に抱かれて泣いてばかりいた子供達も泣くことよりほかに楽しいことを見つけたようですので、4月26日からは通常の保育に戻り、お弁当を始めています。

 お弁当はまず子供の好きなものを入れてください。仲間と一緒に食べることの楽しさを子供達に体験してもらいます。たとえ残して帰っても、「せっかく作ったのに、残して!好きなものだけ食べて、お野菜は残して!」と決して子供を叱らないでください。小食と偏食は幼稚園の子供達の特技です。毎日の食卓に何種類もの食材を使った料理が並んでいて、家族のみんなが美味しく食べていると、そのうちに子どもたちも何でも食べるようになります。

 朝の忙しい時間にお弁当作りは何かと大変でしょうが、「明日のお弁当は何を入れようか?今日の夕食で美味しかった焼き肉とお野菜を入れようか?!」と前日から子供と楽しい会話をしながら、お弁当を作ってください。

 お母さんやお父さんの作ってくれたお弁当を喜んで食べてくれるのは、幼稚園の時期だけです。子どもが高校生になると再びお弁当作りが始まりますが、子どもからは何の感謝もされません。

 親が精一杯の手間をかけて作ってくれたお弁当を仲間と一緒に食べながら、親の愛情も食べます。そうした体験の積み重ねが、子供の心の安定につながるのではないかと思います。

良い子?悪い子?

 小学校の高学年くらいになると、子どもたちは2回目の反抗期を迎えます。(1回目は多くの場合は自我が生れてくる3歳くらいです.)

 反抗期真っ只中の子どもに「今日は学校、どうだった?」と尋ねると、機嫌の良い時は別にして、ほとんどの場合の返事は、「忘れた」「知らん」「別に」と白けた表情で答えるだろうと思います。

 我が家の息子たちが反抗期の頃、なまじっか発達心理学をかじっている私としては、この時期は親とあまり関わりを持ちたくない年齢であることを頭で分かり過ぎているため、かえってそこが辛いところで、「この生意気なガキが!」と思わず挙げたくなる右手を左手でかろうじて抑えて、「あっそう!」と流していました。

 しかし、親が忙しい時に限って、見透かしたように「あのね、今日ね・・・」と長々と話しかけてくるのでした。

 こんなとき、「自分の都合ばかり優先させて!」と言いたくなるのをぐっと耐えて、彼の話を聞くことができたらと思うのですが、聖人君主でない私はなかなかそれができませんでした。難しいものです。

 見方を変えれば、子どもが親を困らせるようなことを仕掛けてくることは好ましいことです。こんなことをしたら親はどう反応するだろうかと、親の出方を見ながら、親との関わりを求めているのではないかと思います。

 親は自分の話をじっくりと聞いてくれる存在であるかどうか、自分は親から大切に受け入れられているかどうかを確かめているのではないかと思います。

 幼稚園から帰って来た子供の言葉が下品(お尻、おっぱい、おしっこ、ちんちん等)で乱暴になっても驚かないでください。それは友達と遊んでいる証拠です。今日は幼稚園で楽しく遊べたのだと安心してください。

 以前はおとなしかった「良い子」が、幼稚園に行き始めて言葉づかいが乱暴で、行動が荒っぽい「悪い子」になってしまったという親の嘆きをよく聞きますが、それは「大人の言うことに『はい』と素直に返事をする『よい子』」という標語に納得している大人の側の見方です。

 心理臨床家の河合隼雄氏は『子どもと悪』(岩波書店)に「何とかして『よい子』をつくろうとし、そのためには「悪の排除」をすればよいと単純に考える誤りを犯している人が多すぎる。そのような子育ての犠牲者とでも呼びたい子どもたちに、われわれ臨床心理士はよく会っている」と書いていました。(私にも心当たりがあります。)

 河合隼雄氏は現代にあって創造的な生き方をしている人物(鶴見俊輔、田辺聖子、谷川俊太郎、井上ヒサシ他)達の子ども時代に、不登校、盗み、いじめ、うそ、怠け、孤独、反抗、など悪の臭いがただよっているのはなぜかを分析し、「悪とは何か」を問いかけています。もちろん悪を単純に肯定しているのではありません。

 現代は、いわゆる「よい子」を育てようとするあまり、「待つこと」を忘れてしまっているようです。

 私もひとりの父親として、子ども(高校3年生)を信じて待つことができない間違いをたくさんしているように思います。

 子どもが「問題行動を起こす」というやり方で、私達大人に、私達の生き方や価値観全体に「問題提起」をしていることを、正面から受け止めたいと思います。

2010年 3月

学校へ行く

今日は卒園式が執り行われました。年少組、年中組の子どもたちに見送られて、年長組の子どもたちは「新しい一歩」を踏み出しました。特にYYKプロジェクトを通していろいろな思いや感情を分かち合った年長組の子どもたちと別れることは寂しいことですが、新しい歩みの上に神さまの守りがあるように祈ります。

 小学校に入学する子どもたちにとっては、今までとは環境が大きく異なる世界に生きることになります。

 幼稚園では周囲の大人から登園を強いられなかったし、家の都合で自由に休めたし、体の調子が悪ければ遠慮なく休めました。

 小学校に入れば、子どもたちは、それまでとは全く異なる正反対の価値観に縛られます。「学校は絶対に行かなければならないところ」というように、学校に行くことが子どもにとっては義務として強いられます。

 しかし、決してそのような学校に対する価値観を子どもたちに強要しないでください。

 本当は、学校というところは、友だちと心と体の触れ合うところであり、そうした触れ合いを通して、みんなが色々な考え方を持っていて、色々な生き方をしているのを体験しながら、自分の人生を見つけてゆくところです。

 私たちはいつの間にか学校に対する固定的な見方をするようになりました。

 学校というのは勉強するところで、新しい学問的な知識を身につけて、1点でも多く点を取るように学ぶところであり、そのように教えてくれるところだというように思っています。だから「学校へ行きなさい。学校へ行くのはとても大事なこと」と思っています。

 しかし、幼稚園の相談室で「不登校」の相談を受けながら、多くの事を考えさせられます。

 不登校の子どもたちは、家庭があるいは社会が、子どもたちの生活にとって一番大事だと重きを置いている学校に、「違う!学校だけがすべてではない!」という主張をしているように思います。

 子どもたちが不登校という症状で、私たちに訴えている意味は何なのでしょう。 それは「今まで当たり前のように受け入れていた生き方や価値観で本当にいいのか!?」という問いかけです。

 学校に行かない子どもたちが何をしているかというと、一日中テレビの前に座り込んでいたり、ファミコンをしていたり、プラモデルの四駆を作っていたり、いろいろですが、中には何もしないで一日中ボーッとしている子どももいます。

 ところが、こうした子どもたちの家での生活ぶりは親としては一番耐えられないことです。ただ単に学校をさぼっているだけではないかと思ってしまいます。パソコンに熱中している子どもに、将来役に立つからと親心で高価なパソコンを買い与えると、しばらくしてバットでパソコンを壊して、「もっと高価なものを買え」と、次から次へと要求を高めます。家庭が重きを置いているものを次々に壊してゆくのです。

 周囲の私たちは、こうした子どもたちの心の中で何が起こっているのか、なかなか分かりませんが、子どもたちの心の深い部分では私たちの見ることのできないドラマが展開されています。さらに、そのドラマは子どもたちがそれまで体験したことのない壮絶なものであり、見えない心の奥深いところでは、かなりのエネルギーを使っているものと思われます。 そのために、学校へ行くという他の子どもにとっては当たり前のことに、エネルギーを向ける余裕がないのでしょう。

 ボーッとしている子どもは、今まで一度もホーッとすることがなかったのかも知れません。新しく自分を立て直すために、ともかくも今はボーッとしていることが大事なのでしょう。

 河合隼雄氏が『子どもと学校』(岩波新書)の中で不登校の時期を「さなぎの時期」と呼んでいます。外から見るとさなぎの外見は何の変化も見られないけれど、さなぎの中では蝶として羽ばたくための必要な準備と変化が営まれています。

 卒園式の最後で子どもたちが保護者の皆さんの方に振り向いて、「信じることを忘れちゃいけない」と歌った言葉は、私たちに向けられているように思います。どこまでも子どもたちを信じながら、私たちにとって「厄介」と思われる行動をなぜ子どもたちが取るのか、その意味を考えたいと思うのです。考えようによっては、世間が「問題行動」と呼び、見た目にはマイナスとしか思えない子供たちの行動は、実は今の時代のあり方に警鐘を鳴らして、来るべき時代のあり方の方向性を示しているのかも知れません。

2010年 1月

子どもをのびのび育てるとは?

新年あけまして、おめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。沢山の年賀状をありがとうございます。本来なら、お一人おひとりにお礼状をだすべきところですが、この場を借りて御礼申し上げます。

 年長組の子どもたちにとっては卒園まであと3ヶ月余りとなりました。4月からは小学校です。

 「その学年並みの学力をしっかりと身につけている子どもは2割ほど。教科書をはっきりした声ですらすら読めて、習った漢字を正しく書けて、計算をテキパキとこなせる子どもが本当に少なくなった。」と小学校の先生の嘆きを最近聞きました。

 その原因のひとつとして、子どもたちが小学校で受ける国語や算数の授業時間数が少なくなっていることが指摘されています。

 1970年代は、小学校6年間で1603時間の国語の授業時間がありました。小学校1年生では、ひらがなの読み書きを4月から10月までの6ヶ月の時間をかけて、ゆっくりと丁寧に教わり、カタカナは2年生になってから教わりました。

 ところが、その後10年ごとに段階的に国語の授業時間数は少なくなり、2002年からは1382時間に減りました。

 その結果、以前は半年かけてじっくりと習っていた「ひらがな」を、今の小学校1年生では4月下旬から6月中旬までの短期間で覚えなければならず、カタカナは2学期に教わり、もちろん漢字も出てきます。

 そのために短期間で文字を正しく覚えた子どもと、覚えられなかった子どもの間には大きな学力の差が生じることになります。

 国語も算数も理科も社会科も、すべて言葉を介して伝えられ、言葉によって理解する勉強です。豊富な言葉の獲得ができないまま小学校の高学年になった子どもは本当に苦労をすることになります。

 「小学校の間くらい、子どもをのびのびと育てたい。そのうちに我が子の隠れた才能が開いて、小学校の教育が伸ばしてくれるのでは?!」

 かつて私はこのように思っていましたし、我が子に対しても、また勝山幼稚園から小学校へ送り出す子どもたちに対しても、このような考え方で関わってきました。しかし「YYプロジェクト」に出会って、「子どもをのびのびと育てる」という言葉の中に隠れている落とし穴に気づかされました。「子どもをのびのびと育てる」という関わり方は、やりようによっては「子どもを駄目に育てる」ことになることも知らされました。

 「個性尊重の教育」がよく言われます。文字や九九が覚えられないのも個性、落ち着きがなく集中できないのも個性であるとして受け入れ、そうした個性を尊重するといって、実は多くの場合は見放されているように思うのです。

 小学校で勉強ができる子どもを指して、「親がよくできたからだ」「もともと才能があった」とよく言われますが、決してそうではありません。

 勝山幼稚園を卒園する子どもたちには、絵本を好きになって、すらすらと読めるようになってほしいと思います。ひらがな、カタカナが書ける子どもになってほしいと思います。体を動かすことの大好きな子どもになってほしいと思います。

 昨年の10月の「園長の手紙」で書きましたように3つの「見えない学力」を身につけて卒園してほしいと願っています。「言語能力」、「根気・集中力」そして「豊かな体験」です。

 この3つの「見えない学力」をしっかりと身につけるために「YYKプロジェクト」を今年も展開していきたいと思います。

 幼児期に人間として心身ともにすくすく伸びていくための根っこの部分を養うことは、親と幼稚園の大切な務めです。 子どもの着実な成長を願いながら、新しい年もいろいろな試みを実践していきます。ご協力をよろしくお願いします。

(参考文献:岸本裕史著「どの子も伸びる幼児の学力」小学館)

2009年

2009年 10月

幼児期に確かな土台づくりを!

勝山幼稚園に「YYプロジェクト」が導入されてから1年半が経とうとしています。毎日の「かけっこ、体操、読み、書き、数字」の短時間の繰り返しは、子どもたちになんらかの変化をもたらしたように思います。人間の心を鍛えるようなことは簡単にできることではありませんが、子どもたちに自信を持たせることはできます。昨日はできなかったことが、今日はできるようになって先生からほめられた、この間まで読めなかったひらがなが読めるようになった、絵本を一冊読んだ、跳び箱5段を跳べた等、子どもたちが以前にはできなかったことができるようになったという新しい力を獲得することによって、子どもたち一人ひとりの「あり様」や「人間性」というものが、いい意味で変化するものだということを知らされました。

 子どもたちにとっては、毎日の活動として繰り返す「かけっこ、体操、読み、書き、数字」は、「無理矢理にやらされる活動」ではなく、毎日当たり前の日課のように繰り返すために、「遊びとしての学びの活動」になり、それらの活動を通して「心」が育てられているように思います。

 YYプロジェクト導入して最初の6カ月間は「かけっこ・体操」を毎日繰り返すことから始めましたが、ただそれだけの繰り返しで子どもたちに変化が見られるようになりました。頭を床から離してブリッジができるようになった、ブリッジの手踏み、足踏みができるようになった、ブリッジ歩きができるようになった、逆立ち横移動ができるようになった、壁逆立ちができるようになった・・・と、ひとつひとつの課題をまるで楽しむかのようにクリアーしていきました。同時に子どもたちの表情も生き生きと変化していきました。

 最近読んだ『どの子も伸びる幼児の学力』(岸本裕史著、小学館)は「YYKプロジェクト」の奥深さを教えてくれました。そして幼児期にどんな土台造りをする必要があるのかを示されました。

 学力には「見える学力」と「見えない学力」の二つの側面があります。以下にこの本の「まえがき」の内容の一部分を紹介します。

 「見える学力」とは3+5=8や、7-5=2といった計算ができるとか、山・川・池といった漢字を正しく読めて書けるといった、テストで採点・計測できる力のことです。

「見えない学力」とは、こうした「見える学力」を根っこで支える力のことです。しっかりとした土台があってこそ丈夫な建物が建つのであり、豊かな土壌があってこそ植物がスクスクと育ち実をつけるように、「見えない学力」なくして「見える学力」を築き上げることはできません。幼児期に「見えない学力」を養うことができたこどもこそが、小学校に入ってから「見える学力」をスクスクと伸ばすことができます。

 「見えない学力」は三つから構成されます。

 まずは「言語能力」です。確かな言語能力なくしては、新たな知識や概念を獲得することはできません。学力獲得の前提条件とも言える、書き言葉を読み書きする力を伸ばすために、幼児期から文字・言葉に親しむことが大切です。

 二つ目は「根気・集中力」です。物事にコツコツと取り組み、途中で放り出さないで、分からないことやできないことを、分かるまで、できるまで集中してやり通す力は、主に幼児期からのしつけによって形成されます。

 三つ目は「体験」です。遊びをはじめとするさまざまな体験を豊かに持つこどもは小学校に入って新しいことを習っても、自らの体験をもとに容易に理解し、それを応用していくことができます。これは幼児期に家庭や幼稚園・保育所で周囲の大人たちがこどもとどのように接してきたかに大きく影響されます。

 この三つの要素から成る「見えない学力」を幼児期にしっかりと身につけた子どもは、小学校に入っても、自ら進んで机に向かい、本を手に取り、コツコツと物事に取り組む子どもになります。自己教育力(YYプロジェクトの言う自学自習の力)を備えた子どもとして育ちます。そして、勉強ができるだけではなく、友だちや兄弟姉妹との輪の中で、人間的なたくましさ、優しさを身につけていきます。やがて社会に出たとき、自分自身はもちろん、周囲の人をも幸福にすることのできる人間として育っていきます。

 「YYプロジェクト」を通して、家庭と幼稚園で連携しながら、「見えない学力」を幼児期に養い、簡単には折れない、なえない、挫折しない子どもに育ってほしいと願っています。

2009年 7月

子どもの変化と成長!!

今日で1学期は終わりです。

 去年の6月よりYYプロジェクトを保育に導入して1年あまりが経ちました。子どもたちの変化と成長に驚くことばかりです。

 一昨日は「ひよこ組」がありました。次から次に初めて参加する親子が訪れ「うさぎ組」の部屋に入りきれないほどでした。わたしは門で自転車の整理に手を取られて、部屋まで案内することができません。そこで思いついて、部屋に案内するのを砂場で遊んでいた子どもたちに頼んでみました。

 「皆さん、今日はうさぎ組に参加するために、幼稚園に初めて来られる方が沢山います。園長一人ではうさぎ組の部屋に案内できないので、お手伝いをお願いできますか?」と頼むと、数人の年長組の子どもたちが「はいッ、分かりました。」とわたしの顔を正面に見据えて返事をして、親子連れに「お早うございます。どうぞこちらに来てください!」と丁寧に案内してくれるのです。何人もの子どもたちが手伝ってくれました。一区切りしたときに、「ねぇ、園長、案ない終わったよ!」と報告に来てくれ、わたしは「ありがとう!今日は大変助かりました。ありがとう!」とお礼を言うと、嬉しそうに微笑んで部屋に戻っていきました。

 わたしは子どもたちの変化に驚くと同時に心が熱くなりました。そしてこの子どもたちの優しさが、YYプロジェクトで養われた「心の力」なんだと思いました。

 1学期最後の職員会議の中でYYプロジェクトを導入して子どもたちがどのように変化したのか、先生たちに報告してもらいました。

■プールの着替えが去年の年少組に比べて大変早い。

■教師の説明を聞いて、次に何をすればいいのか自分で考えて行動するようになった。以前だと「なにをしたらいいの?どうするの?」と何度も教師に訊きに来ていた。

■「これをやってみたい、あれをやってみたい、このことが知りたい」というような興味・関心が増えてきた。

■七夕飾りなどの制作をするとき、集中して取り組むし、教師の説明の飲み込みが早くなった。

■ザワザワしていても教師が話し始めたらサッと誰もが話すのを止めて静かに教師の話を聞くようになった。

■活動が早くなった。たとえば「さぁ、これから誕生会のためにホールに行きます!」と声をかけると、すばやく行動するようになった。

■部屋の時計を見ながら「先生、もう少しでプールの時間だよ」と、次に自分たちが何をすべきなのかを注意して自覚するようになった。

 お家では子どもたちのどんな変化・成長を気づかれているでしょうか。お聞かせいただけたらと思います。

 勝山幼稚園入園案内のパンフレットの製作担当の方が、「昨年からずっと取材で子どもたちを拝見していて、本当に変わったなぁと思います。幼稚園に行くごとに、子どもが、そして先生方のやる気がアップしているのが分かりました。子どもたちの集中力、活気を感じました。」という感想を寄せてくれました。

 『エチカの鏡』でYYプロジェクトが紹介されて以来、幼稚園の「ひよこ組」は毎回大勢の親子連れに来ていただいています。2階の遊戯室に移動するとき、年長組の子どもたちが「書き」を集中して取り組んでいる様子に、「こんなに真剣にクラス全員がやっているなんて、見たことがない!」と驚かれていました。

 それだけ、ただ遊ばせるだけの保育に保護者の皆さんは物足りなさを感じておられるのだろうと思います。「かけっこ・体操・読み・書き・数字」の繰り返しを通して、「子どもたちに本来与えられている無限の可能性」が少しずつ確実に引き出されていることに、私達現場の教師たちは日々新鮮な感動と驚きを与えられています。

 子どもたちは本能的に自分を高めたい、成長したいという気持ちを持っています。集団の中で生まれる競争心はその表れです。そのような状況の中で、子ども一人ひとりが向上していける「しかけ」をどのように用意すればいいのか教師たちは1学期の間、嬉しい?苦労?をしました。

2009年 5月

子供に託す

新学期が始まり、1ヶ月がたとうとしています。

 年少組の子どもたちも幼稚園に慣れてきたようで、幼稚園の門でも「行ってきます!」と元気よくお母さんに手を振って保育室まで一人で行くようになりました。

 3月の朝日新聞の「育児ファイル」のコラムに次のような記事が載っていました。

 少し長いのですが紹介させていただきます。

 家事が下手な子どもが増えていると感じます。

 お稽古や塾で時間がない、忙しいから子どもにやらせるより自分でやったほうが早い。

 理由はさまざまですが、私はやはり、子どもにもっと家事をさせるべきだと考えています。

 食べ物の腐ったにおい、水の冷たさや油のはねる音など、家事には五感を使う場面がたくさんあります。

 また、食事や風呂の支度には要領よく手順を段取る力も必要です。

 こうした完成は暮らしの中で受け継がれていくものですが、そんな当たり前の力が弱まっている気がします。

 まずは、子どもとお風呂に入りながらのおそうじはどうでしょう。

 浴室にかわいいブラシを置いておき、入浴中に浴室の汚れを見つけたら

「こういう場所がよごれるのよ」「放っておくとぬるぬるしちゃうから、このブラシできれいにしようね」。

風呂用の洗剤を使う必要はありません。

ブラシにボディーソープをつければ十分汚れは落ちます。

 あとはシャワーを流して「○○ちゃんもお風呂場もさっぱりきれいだね」と笑顔で。

 身の回りにある家事のきっかけに気づく力、

 しないとどうなるかを考える想像力、

 道具や業を使う解決方法までを自然に暮らしの中で伝えていきたいのです。

 親が先取りして、都合のいい時だけ「手伝って」と細切れの作業で指示するだけでは、本当の意味での力はなかなか育ちません。

 方法を一緒に考える、時には子どもに託して、失敗を通して結果を学ばせる。

 段取りを横取りしないことも、子どもの力を延ばす大切な知恵なのでは。

(ももせ いずみ:生活コラムニスト)

 幼稚園でも昨年度から「子どものできることは子どもにしてもらう」ということに気をつけています。

 「先生たちが子どものできることを取り上げて、子どものやる気を奪っている」と、園内研修会での外部講師の指摘は、痛いところを突かれた思いでした。

 確かにそれまでは

「教師が椅子を並べた方が早い」

「教師が後片付けをした方がきれい」

「教師が机を拭いたほうがきれいで早い」

ということで、子どもたちを周囲に立たせて待ってもらう場面が多かったように思います。

 ご家庭でも食後の後片付け、食器洗い、お風呂の掃除、部屋の後片付け・掃除など、子どもに託してみてください。

 もしかしたら、食器が割れるかもしれません、二度手間になるかもしれません、もう一度掃除機をかけなければならないかもしれません・・・

 それでも、できるだけ子どもたちに託していただきたいと思います。

 回を重ねるごとに、子どもたちもやり方を覚えて、上手になるだろうと思います。

 そして忘れていただきたくないのは、たとえその時はうまくいかなくても、「ありがとう!嬉しかったよ!またお願いね!」という気持ちを込めた声かけを毎回してください。

 親からほめられて、感謝されると、「自分は必要とされている、役に立っている」という思いが与えられて、子どもは次回もやろうという気になります。

やる気が出てきます。やる気が出てくるから、次回も手伝う。そしてほめられる。

 この繰り返しの中で、子どもにとっては手伝うのが当たり前になり、「やる気」が養われていきます。

 日常のいろいろな場面で、「子どもに託す」ことを実践してみてください。

2009年 3月

1年生になったら

年長の子供たちとは明日でお別れです。

 4月からはピカピカのランドセルを背負って小学校に通いはじめます。

 子供たちの後ろ姿は、ランドセルが歩いているようで、「ついこの間生まれたばかりなのに、こんなに大きくなって・・・」と喜ぶ反面、「まだ小さいのに大丈夫だろうか」と心配することだろうと思います。

 幼稚園ではたくさん友達を作り、遊ぶことが子供たちの仕事でした。

 しかし、小学校に入りますと「学ぶ」ということが加わってきます。

 学年が上がるとともに、学ぶことの比重は段々と大きくなってきます。

 子供たちは幼稚園では経験しなかった苦労や辛さを少しずつ担うことになります。

 このことは子供たちにとっては大変なことです。

相田みつをさんの詩に、こんなのがあります。

  道

 長い人生にはなあ

 どんなに避けようとしても

 どうしても通らなければ

 ならぬ道

 というものがあるんだな

 そんなときはその道を

 だまって歩くことだな

 愚痴や弱音は吐かないでな

 黙って歩くんだよ

 ただ黙って

 涙なんか見せちゃダメだぜ

 そしてなあ

 その時なんだよ

 人間としてのいのちの

 根がふかくなるのは

 (相田みつを書「育てたように子は育つ」小学館)

 この詩は新しい一歩を踏み出す人たちへの暖かい励ましの詩です。

 卒園する子どもたちにとっても、これから通り抜けていかなくてはならない道が待ち受けています。

 子どもだから愚痴や弱音を吐いてもいい、涙を見せてもいいのです。

 そんなとき、子どもたちの訴えに耳を傾けて聴いてください。

 「聴く」とは、右から左へ聞き流す「聞く」ではなく、「なぜ、どうして?」と問い詰めていく「訊く」でもありません。

 「そうなんだ、そんなことがあったんだ。それで悲しい気持ちになっているんだ・・・」と、まずは子どもたちの訴えをそのまま受け止めてください。

 10ヶ月ほどの期間でしたが、子どもたちは「体操・かけっこ・読み・書き」を頑張りました。

 この経験を通して子どもたちに少なからず「自信」を獲得したのではないかと思います。

 ご家庭で子どもたちを暖かく包んでくださり、そして称賛と励ましの声がけを忘れないでください。

 きっと子どもたちは自分の力で「道」を歩んでくれるだろうと思います。子どもを信じましょう。

 それから最後にお願いしたいことは、子どもたちに基本的しつけ(①挨拶 ②名前を呼ばれたら「はい」の返事 ③外から帰ったら靴をきちんと揃える)と、「早寝早起き朝ごはん」の生活習慣を身につけさせてください。

 基本的しつけについては、今年度は幼稚園では特に心がけてきました。

 「お早うございます」の挨拶、名前を呼ばれたときの「ハイッ!」というはっきりとした大きな声の返事、園庭から部屋に入るとき脱いだ靴はそろえてくつ箱に入れる、これだけのことで子どもたちの雰囲気が随分と変わりました。

 これらの三つのことができる子どもは、思春期になって大きく道を踏み外したり、崩れることはないだろうと思います。

 次に「早寝早起き朝ごはん」の生活習慣ですが、人間の体内時計はだいたい24時間のリズムで動いています。

 昼間は動き、夜に眠るという習慣が確立されていないと、心と身体にとって悪い影響を与えます。

 とくに子どもの「夜更かし」は「百害あって一利なし」です。

 夜9時には床について、朝早く起きて朝食をきちんと食べるようにしてください。

 兵庫県の山間の小学校で「百ます計算」の指導で脚光を浴びた陰山英男先生(現立命館小副校長)は、学力向上のイロハは「読み書き計算」の反復学習と、生活習慣の確立であることを実証しています。

 陰山先生は「社会は、子どもを早く寝かせる保証をすべきだ」という信念に基づき、現場教師として朝の集中力が、学力や体力向上にどれだけ役立つかをご存じであり、ライフスタイルを朝方に変えるべきだと様々な場で主張されています。

 またいつの日にかたくましく成長した子どもたちと再会することを楽しみにしています。

2009年 1月

謹賀新年 / 子どもの遊びとしての「YYK」

謹賀新年

 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

■たくさんの年賀状をありがとうございました。お礼を申し上げます。この一年が良い年でありますように祈ります。

■私は新年早々からパソコンに向かっていました。

 新年4日午前中に執り行われる教会の礼拝の準備のためです。

 パソコンを使うようになってから漢字の「ど忘れ」がひどくなりました。

 今年で還暦を迎える歳のせいもあるでしょうが、同じことをパソコンを使う人が口をそろえて言いますから、「ど忘れ」はわたしだけではないようです。

 漢字が書けなくても別に不自由はしませんが、手書きで手紙を出すことはほとんどなくなりました。

 以前は、親しい友人からワープロの手紙が届くと、何となく、その友人と距離ができたような気がして、寂しさを感じました。

 最近は感情に少し変化が出てきて、書いても読めないような下手な字で書くよりも、ワープロを使って、伝えたいことが正確に伝わるように考えながら書いた方がよいと思うようになりました。

 しかし、パソコンを使いながら時おり思うのですが、私がパソコンを使うというよりも、パソコンが私を使っているのではないかと錯覚するほど、文章を作る量も、パソコンに向かっている時間も増えてきました。

 そしてパソコンの画面を見続けることが原因と思われるひどい肩凝りに慢性的に悩まされています。

 午前中のほとんどを園長室に籠もって、パソコンの画面を見ていると、何となく「ひと仕事」をした気分になるから不思議です。

 しかし、やっぱり子どもたちと無性に触れ合いたくなり、弁当箱を抱えて「園長、来てくれたん!」と笑顔で迎えてくれる保育室にいそいそと向かう自分自身に苦笑しています。

 「人が人と一緒にいる時のぬくもり」こそが、「こころ」と「身体」の疲れを癒してくれます。

 手作業よりもはるかに短時間に大量の仕事をこなし、手紙や電話よりももっと大量に効率的に短時間に情報の交換が可能な機械なのですが、一方では、便利な機械を使えば使うほど、本当に大切な何かを置き忘れてしまう現実を作っているのではないかと思えてなりません。

 しかし、社会では、このような機械を自由自在に扱って、仕事の成果を上げる人が有能であると評価されます。

 私たち人間にとって、本当の「豊かさ」とは一体なんであるのか、いま一度考えたいと思うのです。 子どもの遊びとしての「YYK」

■YYプロジェクトを昨年の6月から始めて6ヶ月がたちました。

 開脚前屈、ブリッジ、アザラシ、かけっこを毎日繰り返しました。

 同じことを同じように、毎日繰り返すのは単調になりますから、子どもたちが飽きないように、そして夢中になって取り組めるように、いろいろな工夫をしました。

 特に気をつけたことは、子どもたちに無理強いをしないで、しかもどの子どもも全員が取り組むことができるようになることでした。

 そのためには、その子どもに、どのような環境を、どのような言葉かけをしたらいいのか、教師たちの工夫が始まりました。

■ブリッジで、何度やってみても、なかなか頭を床から離せない子どもは、そのうちにやらなくなり座り込んでしまいます。

 しかし、決して諦めたわけではないのです。

 隣の子どもが難なくブリッジをしている様子を見て、やっぱり「自分もできるようになりたい!」と悔しい思いをしています。

 教師は子ども一人ひとりの様子を丹念に見ながら、「この時だ!」と見極めたときに、その子どもに「ブリッジを見せて!頭が床から上るように手伝うから」と声をかけ、ブリッジをした子どもの腰の下に手を当てて、少し持ち上げると子どもの頭が床から離れました。

 「すごい!頭が床から上ったよ!」とほめて、「みんな、注目!○○さんがブリッジで頭が床から上るようになりました!」と、子どもたちの前でもう一度やってもらいました。

 すると見ていた子どもたちは「すごい!やった~!」と一斉に拍手、そしてその子は少し照れ笑い・・・。

 出来るようになると嬉しいし、そのことでほめられると、もっと嬉しいのです。

 ブリッジに限らず、他の場面でも似たような光景が繰り広げられました。

 全員の子どもが、一人残らず、「やる気」になるためには、その子に「いつ、どのようなタイミングで、どのような言葉かけをすればいいのか?!」、教師たちの嬉しい?悩みは尽きることはありません。

■「身体性をともなった達成感」を味わうことは、子どもたちに大きな「自信」と「喜び」をもたらしたように思います。

 身体を使った体操で、ちょっと励まされてできないことができるようになる、

 ほめられて嬉しい思いをする、もっと練習したくなる、

 そしてさらにできるようになる、・・・。

 子どもにとっては「体操」も「面白い遊び」のひとつです。

■毎日の繰り返しを通して、子どもたちがどのように変化・成長を遂げつつあるのか、秋の運動会と12月のクリスマス会で気づかれたのではないかと思います。

 3学期は正味2ヶ月ほどしかありませんが、「読み、書き、計算、音楽」を少しずつ取り入れながら、子どもたちの「学ぶ力」を伸ばしていきたいと思います。 ■勝山幼稚園らしさを生かしたYYプロジェクト=「YYK(Katsuyama)」が、子どもたちにどんな変化・成長をもたらすのか、これからが本当に楽しみです。

2008年

2008年 12月

クリスマスの出来事

クリスマスの時期になると、街ではクリスマスソングが大きな音で鳴り響き、夜はまぶしいほどの輝きが目に入ります。

 クリスマスセールとクリスマスプレゼントが重なって、クリスマスの訪れを気づかないで過ごすことは不可能です。

 否応なしにクリスマスが押し寄せてきます。

 聖書に記されているイエス・キリストの誕生は、暗さと静けさと寒さに包まれていました。

 誕生の場となった馬小屋は町の中にありました。

 町は住民登録のために生まれ故郷に帰ってきた人々で溢れていたのに、それらの人々はイエスの誕生に気づきませんでした。

 イエス・キリストの誕生を最初に祝うために訪れたのは、町から遠く離れた野原で羊の番をしていた羊飼いたちでした。

 夜の暗闇と寒さの中で焚き火を囲んでいた羊飼いたちは、天から来たみ使いたちの知らせを聞いて、すぐに馬小屋へと出発しました。

 当時にあって羊飼いという仕事は尊敬されず、人間としても信用されていませんでした。

 金持ちの人から託された羊を養うために草葉を求めて、ときには知らず知らず他人の土地に侵入してしまうこともありました。

 だから泥棒呼ばわりもされていました。

 しかし、羊は羊飼いを自分の唯一のご主人として全面的に信頼していました。

 羊は無力であり、自分では生きる力はありません。

 羊が安全であるかどうか、羊自身が決められず、羊の群れを養い導く羊飼いに頼っていました。

 羊は迷いやすい動物です。

 判断力も持っていません。

 一度迷ってしまいますと、自分の力では元の正しい道に戻ることはできません。

 迷った羊が助けだされるのは、「羊のためにいのちを捨てる」覚悟のあるよい羊飼いが探し出してくれたときだけです。

 羊は判断力がありません。

 自分の主人として従っている羊飼いが善人なのか悪人なのか判断することができません。

 悪い羊飼いに養われたときは、命を失う危険な目に遭うこともあります。

 それでも、羊はついていきます。

 全面的に自分に頼りきっているものに対して確かに応えていくことは並大抵のことではありません。

 しっかりと応えていこうとすればするほど、逆に知らされることは、自分の弱さと頼りなさと、自分の限界です。

 「こんな自分が、こんなに全面的に自分のことを頼っている者たちの信頼に、本当に応えることができるのだろうか」と自分の貧しさを知らされます。

 羊飼いたちこそ、すべてを頼り、自分たちを支えてくれる存在を必要としたのでした。

 そして羊飼いたちが知らされたことは、こんな自分たちを神が信頼して羊たちを託してくれていることでした。

 自分たちも神に養われ導かれていることを知らされたのでした。

 クリスマスは「小さい者が大きくされ」「低い者が高くされ」「貧しい者は豊にされる」出来事であると聖書に記されています。(新約聖書 ルカによる福音書1章46~55節)

 クリスマスの出来事は、まぶしいほどの明るさの中で起こったのではなく、暗闇の中で、しかも馬小屋という神の子が生まれるにはふさわしない場所で起こった小さな光の出来事でした。

 しかし、この小さな出来事が全世界を巻き込むほどの大きな出来事となったのでした。

 今年の子どもたちへのクリスマスプレゼントは何にするか決めましたか?

 子どもが以前から欲しがっていた高価な玩具もいいでしょうが、大人から子どもへ「時間」のプレゼントはどうでしょうか。

 大人自身が子どもへのプレゼントとなって、ひたすら体を触れ合いながら遊ぶ時間を味わっていただきたいと思います。

2008年 9月

家族とは?

久しぶりに幼稚園に大勢の子どもたちが戻ってきて、園庭も園舎も生気を取り戻したような感じがします。

 夏休みを境に父親の転勤のために松山を離れる家族と「やっぱり、家族は一緒がいいですよね!」とお別れをし、転勤のために松山に住み始める家族を「やっぱり、家族は一緒がいいですよね!」とお迎えしました。

 しかし、よくよく考えてみると、家族はいずれバラバラになります。

 父親の転勤のたびに、一緒に移動していた家族も、子どもたちが中学生、高校生になると、父親は単身赴任を余儀なくされる場合が多いようで、さらには子どもたちは一人、二人と、自立をして家を離れていきます。

 「家族」は「木」のようなイメージがあります。

 一本の木として地面にしっかりと根付いて太い幹から枝が分かれて、葉っぱが生い繁っているのですが、やがて実が実ると、木から離れていきます。実になる前に離れられても困るし、熟した実にいつまでもくっつかれるのも困ったものです。

 そもそも夫婦の出会いはどんなだったでしょう。

 運命的な出会い?計画的な出会い?だったでしょうか。

 では子どもはどうでしょう。

 親と子どもは運命的な出会いです。

 運命的であれ、計画的であれ、夫婦は「いつでも他人同士として別れられる」関係ですが、子どもと親は「絶対に離れられない」関係です。

 この「いつでも別れられる」関係と、勘当しても親子は親子という「別れられない」関係が、家族内に同居していいるので、家族は「面白い、何が起こるか分からない」のだろうと思います。

 この家族に、兄弟姉妹という関係が入り込んでくると、ますますややこしくなります。

 兄姉からすれば、あとで入り込んできた弟妹に父母の関心を奪われるので、面白くありません。

 あとから生まれた弟妹にすれば、最初から邪魔者がいるのですから、困ったものです。

 子どもにとっては、自分の意志で選んだのではない親と兄弟姉妹と、一定の期間、運命を共にして、自分とは違う人間と一緒に住み続けるということが、自立して社会に出ていくために必要なんだろうと思います。

 親の側からすれば、「勘当しても親子は親子」という関係の子どもを放っておけないがゆえにものすごく振り回されます。

 「学校に行きたくない」と言い出した子どもに「行きたくないんだったら、別に行かなくてもいいよ!」とは絶対に言えず、「我が子に限って、なんでこんなことを言い出すのか」とあわててしまいます。

 「親の育て方がいけなかったのだろうか?!」と反省するのですが、すぐには心当たりは見つかりません。

 「なんで?なんで!」と子どもから突きつけられた親自身の問題として真剣に考えるようになると、いつの間にか子どもは学校に行くようになっています。

 しかし、一人の子どもの問題が解決してくると、もう一人の子どもが何か問題を起こす。

 家族は常に動いています。「なんでうちの家族に限って、こんなことになる?」と嘆くのですが、どの家庭も似たりよったりの問題を抱えていて、完全無欠な家族というのはありません。z

 子どもは親からすれば「わたしの子ども」という持ちもののようですが、決して自由自在に扱えるものではありません。

 「わたしの子どもだから、わたしに似ている」ようで、すべてが似ているわけではありません。

 わたしの一部だからといって、何を考えているのか分かりません。

 だから、「子育て」は予測もしなかった事態に巻き込まれるので、ある人に言わせれば「楽苦(たのくる)しい」のだろうと思います。

 自分の力だけではいかんともしがたい、けれど最終的には責任を負わなければならない厄介な?「子育て」を楽しみませんか?!

2008年 7月

心の力、体の力、学ぶ力

今日で1学期は終わりです。

 今学期は6月より「YYプロジェクト」を取り入れましたが、どんな感想をお持ちでしょうか。昨日に開かれた「横峯氏DVD放映会」でも沢山の質問が出されました。

 幼稚園で心も体も大きく成長して小学校に入学しても、なんの問題やつまずきもなく小学校6年間を過ごすことは簡単なことではありません。

 のびのび元気に遊べる子どもに育ってほしいし、さらには引っ込み思案ではなく、自分の意見や思いを主張できる子どもであってほしいと思います。

 勝山幼稚園を卒園した子どもたちは、自分で考え、自分で学ぶ習慣を身につけてほしいと願っています。

 小学校に進めば、先生から教えられるだけでなく、自分から積極的にいろいろなことに興味を持ち、自分で学ぶ世界を広げていってほしいと願っています。

 思春期を迎えたときに、平坦ではないこの人生のひとつの時期の道を、ときには周囲の支援を受けながらも、自分の力で歩き、自立の道を切り開いて行けることを願いっています。

 地上に大きく枝を張っている木の根っこは、土の中でも大きく広く根を張っています。だから強い風が吹いて大きくゆれても、しっかりと地面に根付いているので倒れることはありません。

 この「YYプロジェクト」は、子どもたちが幼稚園に通ってくる3歳から6歳の大切な幼児期に、しっかりと根っこの部分を育ててくれる効果的な保育環境作りのやり方であると確信しています。

 この「YYプロジェクト」とは横峯吉文氏が鹿児島の志布志で運営する保育園のYOKOMINE式と幼児活動研究会(本部東京)が提携を結び、YY(Yokomine-Youjikatsudou)方式として、全国104園(2008年6月現在)で取り入れられている保育のやり方です。

 横峯氏は「教えられたことはいつか忘れるが、自分から学んだことは絶対に忘れない」と確信し、子どもたちが生まれながらに与えられている「心の力」「学ぶ力」「体の力」を引き出す効果的な保育環境の設定の仕方を考案しました。

 「心の力」とは正義感や道徳観などの心に関するものです。子どもは誰でも本来、まじめな心、やさしい心、忍耐力などを持っています。 しかし、子どもが育てられる環境によっては、こうした心のあり方は望ましくない方向に行ってしまうことがあります。

 「学ぶ力」とは、理解力と思考力、洞察力を兼ね備えた力のことです。

 つまり、「自学自習の力」です。この「学ぶ力」は、すべてのものごとの基本です。

 「体の力」とは、体力や柔軟といった力のことです。

 運動神経をつかさどるのは小脳ですが、小脳は6歳までにほとんど出来上がると言われています。

 つまり、運動神経の善し悪しは6歳までに決まってしまうのです。

 勝山幼稚園ではキリスト教主義保育の建学精神のもと、開園以来約60年の歴史の中で積み上げてきた「一人ひとりを大切にし、のびのびとした環境の中で子供を育てる」という「自由保育」に、今後は「YYプロジェクト」を取り入れていきます。そして勝山幼稚園を卒園した子どもたちが、小学校でも自分に自信を持ち、自分のありのままを自分で肯定して受け入れることができて、のびのびと生きていく力を身につけてもらいたいと願っています。

 具体的には2学期から以下のような保育内容を従来の保育に重ねて取り入れていきます。

(1)かけっこ

 いまの環境の中で子どもたちは思いっきり走り回るということができません。

 安全な園庭の中で、思いっきり、短時間、数人で、走ります。勝つこともあれば負けることもある。

 子どもにとっては勝負を競い合う楽しい遊びです。走ることによって腰骨が立ち、姿勢がよくなり、集中力が身につきます。

(2)体操

 柔軟体操を毎日10分程度行います。

 どんどん体を柔らかくして、ブリッジ歩きやブリッジ回転、側転、逆立ち歩き、跳び箱などに挑戦します。

 少しずつできるようになり、面白いからもっと練習したくなる、次の段階に行きたくなる。

 この繰り返しで子どもたちは運動が好きになります。

 子ども一人ひとりの段階を見極めて、無理矢理にやらせることはしません。

(3)読み書き

 無理に教え込むことはしません。

 一斉授業もしません。

 子どもたちは、年少の時期にはひらがなに興味を持ち始め、年中の時期には絵本を拾い読みするようになり、年長の時期には自分で読みたい本を本棚から探して読むようになります。

 本に興味を持ち、本が好きになるように環境を工夫します。

 並行して「YOKOMINE式学習長(書き取り帳)」を行います。

 子どもたちは自分の興味と自分のペースで進めていきます。

 書き順も正しくバランスのとれたカタカナ・ひらがながきれいに書けるようになることを目指します。

 もっと早くこの「YYプロジェクト」と出会っていたらという気持ちも少しありますが、これからは「YY-K(katsuyama)プロジェクト」という勝山幼稚園式のYYプロジェクトを展開していきます。
 夏休み、お元気でお過ごしください。

2008年 6月

子どもの可能性

すでにお知らせしましたように、6月27日(金)午前10時より横峯吉文先生をお招きして講演会を開きます。

 横峯先生は鹿児島の志布志で30年間、保育園の運営に関わっており、プロゴルファー横峯さくらさんの伯父さんです。

 横峰先生はご自分の保育園で、「ルールもない、しつけもない、指導もない、その子にとって必要とされている環境をととのえることによって、自分で習い、自分で考え、自然に学ぶ力をつける」独自の保育現場を創り出しています。

 勝山幼稚園では横峯先生が長年にわたって積み重ねてきた子どもたちとの関わり方の工夫や、より豊かな保育環境の設定の仕方を横峯先生に学びながら、少しずつ取り入れてゆきたいと思っています。

 勝山幼稚園58年の歴史の中で積み重ねてきたものの上に、さらに子どもたちにとってよりよい環境をととのえて、勝山幼稚園を卒園した子どもたちが小学校でも自分に自信をもって、自分の思いや感情を言葉で表現・主張することができ、自分のありのままを自分で肯定することができて、のびのびと生きていく力を身につけてもらいたいと願っています。

 横峯先生は「心の力」「学ぶ力」「体の力」という言葉を使っていますが、子どもたちが生まれながらにして与えられているさまざまな可能性を引き出そうとしています。

 私が横峯先生に出会ったのは今年の2月に横峯先生が運営しておられる保育園においてでした。

 「面白い保育園が鹿児島の志布志にある。読み、書き、計算、体操を保育に取り入れている。見に行きませんか。」と誘われて、「なぜ今の時代に、幼児に読み、書き、計算、体操なんだ。子どもは遊びが一番ではないか!」と、最初はその誘いに心は動かされませんでした。

 しかし、志布志の保育園の様子を収録したDVDを見て、「是非ともこの目で見て確かめてみたい」と思い立ち、見学に行きました。その保育園で見聞きしたことは私にとって新鮮な驚きでした。

 子どもたち一人ひとりの目が活き活きと輝いていました。ともかくも自分の保育園が好き、この保育園でやっていることが面白い、友だちとの遊びが面白い、先生たちが大好き、・・・そんな目の輝きでした。

 もちろん勝山幼稚園の子どもたちの目も輝いていますが、ちょっと違っていました。

 志布志の保育園の子どもたちの目は、「自分からいろいろなことを知りたい」「人に言われるのではなく自分から挑戦してみたい」というような目でした。

 先生から指示されるのではなく、子ども自身の思いと意志で、やりたいことを見つけ、自ら考え、自ら学ぼうとする雰囲気が保育園全体に感じられました。

 志布志の保育園では、難しい教材も特別に訓練を受けた専門の先生もいるわけでもありません。

そこには、子どもたち一人ひとりが必要とされている環境がととのえられていました。

「できることは面白い、面白いからもっとやりたくなる、上手になると楽しい、楽しいから次の段階へと進みたくなる」という繰り返しがありました。

 決して子どもたちみんなが同じことを、同じペースでやっているのではありません。

子ども一人ひとりが自分で見つけた自分のペースで、ときには友だちを意識してむきになったり、すべてが遊びのような感覚で真剣に楽しんでいました。

 子どもにとって(もちろん大人も)、生きる意欲を持つための第一のことは、自分の存在が周囲から受け入れられている、自分のことが肯定されているということが確信できることです。

 私達周囲の大人(親)は、子どもたちに「そんなこともできないの」「もっとちゃんとして」というような否定的なメッセージを伝えるのは得意ですが、「あなたが好きだよ」「いまのままのあなたでいいんだよ」「あなたがそばにいてくれて嬉しいよ」という肯定的なメッセージを子どもたちに伝えるのは、非常に苦手です。

 ですから、ときに子どもたちは「本当に大事にされているの」と不安になって、周囲の大人を振り回すようなことをして、確かめようとします

 周囲から承認されること以上にもっと大切なことは、「いまの自分でいいんだ」「いまの自分が好きだ」という自分で自分自身を受け入れ、肯定することができることです。

 志布志の保育園の子どもたちの目の輝きは、自分で自分を受け入れている自信に満ちた輝きのように見えました。

。 横峯先生の保育園は子ども一人ひとりに必要とされている環境をととのえることに豊富な経験と知識を持っています。

 勝山幼稚園も子どもたちがよりいっそう成長し、輝く目を持てるように、横峯先生の工夫を学びながら、子どもたちによりよい環境をととのえた勝山幼稚園をつくっていきたいと思っています。

2008年 5月

規則正しい生活習慣

新しい年度が始まり、1カ月が過ぎようとしています。年少組の子どもたちも、少しずつ自分の居場所を見つけているようです。

 幼稚園の3年間の時期に大切なことは「規則正しい生活習慣」を身につけることです。

 二つの大切な生活習慣があります。

 ■ 夜は9時前後に寝て、朝は7時間前後に起きて、10時間ほどの睡眠時間をとる

 ■ 朝食を必ず食べる

 「朝食を食べさせることはできるけれど、夜9時前後に寝て10時間の睡眠時間を確保するのは難しい」という声が聞こえてきそうですが、大人の生活の事情に合わせざるを得ないことも分かりますが、子どものための生活習慣は、大人の生活習慣とは根本的に異なります。

 最近出版された『その子育ては科学的に間違っています』(三一書房)に多くのことを教えられました。

 本の内容の一部を紹介したします。

 3歳から6歳あたりの年代では、脳の発育にとって1日10時間の睡眠が必要です。

 それが8時間程度では問題だし、8時間以下ではとんでもありません。

 睡眠時間が不足すると、子どもは当然寝坊をしたり、目を覚ましても体が起きていないために活気がありません。

 食欲が出ないし、不機嫌でイライラして落ち着きがありません。

 「すぐにキレる子ども」のことが、現在社会問題になっています。この睡眠不足が「すぐにキレる」直接の原因ではありませんが、裏では生活習慣の乱れと深い関係があります。

 子どもからすれば夜遅く帰ってくるお父さんを待って少しでも遊びたいと思いますし、親と子のスキンシップが大事だと考えるお父さんは少しの時間でも子どもと関わりたいと思います。

 子どもの夜更かしが毎日のように繰り返されると、子どもの体温は夜になっても下がらず、寝付きが悪くなります。

 さらに夜更かしの習慣がついてしまうと、すべてが悪循環になって夜更かしと睡眠不足がだんだんとエスカレートします。

 年長になればテレビゲームに熱中するとか、親と一緒にテレビドラマを見るとか、夜更かしの要因がさらに重なっていきます。

 やがて小・中・高校生になってから、問題を起こす子になる可能性が高くなります。

 実はコミュニケーション不足より、夜更かし(睡眠不足)の害悪の方がはるかに大きいのです。

 「子どもを夜9時前後に寝かせるなんて、とてもできやしない」という声が聞こえてきそうですが、幼稚園の時期に限って言えば、子どもとの毎日のスキンシップよりも、毎日の規則正しい睡眠時間の方が文句なく大事です。

 子どもを午後9時前後に寝かせるようにするには、それなりの工夫が必要です。

 【1】午後はできるだけ昼寝をさせない。たとえ眠ってしまっても1時間以内に起こす。

 【2】夕食は6時から6時半の間にとる。

 【3】テレビを見たり、遊んだりする時間は、夕食後から7時までとする。テレビゲームは興奮するのでさせない。

 【4】入浴は午後7時から7時半の間にすませる。

 【5】入浴後はパジャマに着替えて(寝る心の準備)、午後8時になるまで寝床の上ですごす。

 【6】午後8時前後になったら、トイレをすませ、いつ眠ってもよい準備をしておく。それから、寝床に横になって、絵本の「読み聞かせ」を始める。

 【7】読む本は子どもの希望にまかせ、20分以内に終わるように4~5冊とする。読んでいるうちに、1日の疲れが出てきて、やがて体温が下がり寝つく。もし寝入らなければ「今夜はこれでおしまい」と部屋の照明を少し暗くして「おやすみ」にすれば、ほどなく寝入ります。

 子どもと一緒に食事をして、子どもと一緒にお風呂に入れば、その間に子どもと会話もできるし、スキンシップもできます。

 本格的な親と子との触れ合いは、休日・祝日に十分に味わってください。

 以上のことが本の中で強く訴えられていました。

 すぐにこの通りに実行することは難しいだろうと思いますが、3歳から6歳まで間に「規則正しい生活習慣」を身につけることは、その後の子どもの成長と発達にとっては大切なことですから、家族で工夫をしていただきたいと思います。

2008年 1月

わたしを好き?

新年あけまして、おめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

 沢山の年賀状をありがとうございました。

 本来なら、お一人おひとりにお礼状をだすべきところですが、この場を借りて御礼申し上げます。

 皆さんは、ご自分が赤ん坊の頃を覚えていますか?

 周囲からどのように受け入れられたか、両親からどんなふうに愛され、可愛がられたか覚えていますか?

 もちろん、はっきりとは覚えていないでしょう。

 しかし、たっぷりと愛された感触は体の中に残っていると思います。

 そして、自分が赤ん坊の頃に両親から受け入れられたと同じように、自分の子どもを受け入れているだろうと思います。

 子どもが、周囲から「大切にされている自分」を、おぼろげながらでも感じるようになるのは1歳半頃と言われています。

 言うなれば、「私」というものが誕生する時期です。

 1歳半くらいになると、赤ん坊の表情は豊かになります。

 それまでは、大小便のお世話やミルクの準備に追われる毎日であり、夜泣きに悩まされることの多い日が続きます。

 たまに赤ん坊が見せる笑顔が、忙しい子育ての日々を慰めてくれました。

 しかし、やがて、1歳半頃になると、歩くようになるし、片言の言葉をしゃべるようになるし、喜怒哀楽の表情は豊かになり、満面の笑顔はとても可愛くなります。

 体重は抱き上げるのにほどよい重さであり、肌の柔らかさと張りは何とも言えない感触があります。

 そんな我が子を、親は可愛くて仕方ないと、ますます思うようになるし、子どもは本当に自分は親から愛されているんだと思うようになります。

 自分のすべてが親に受け入れられていて、愛されているのだということを、何の疑いもなく感じています。

 子どもは、このように徹底して愛されることを本能的に求めようとします。

 だから、子どもは子どもなりに、一所懸命に努力して愛されようとします。

 「笑顔」という武器を存分に使って、親から愛されようとします。

 親に受け入れられて、大切にされて、愛されて、生きていくということは、子どもにとっては命がけのことです。

 そのように、手間と時間と愛情をかけて育ててきた子どもが、5~6歳のころから親に悪態をつくようになります。

 親を非難するようになります。

 小学校、中学校と、子どもが大きく成長するにつれて、その悪態のつき方と非難の仕方は、親からすれば、ときに理不尽に思うようなこともあります。

 けれども、このような子どもの親に対する攻撃は、「本当にお前たちは自分を愛してくれているのか?」という問いかけではないかと思います。

 赤ん坊の頃に愛してくれたことは、親の真実の思いだったのかと、問い直しているのだろうと思います。

 そして、「ああ、お前が好きだよ。そのまんまのお前が好きだよ」という親のメッセージを待っているのだと思います。

 私たち親は、自分の子どもにとってよかれと思えることを精一杯してきたと思っています。

 子どもが求めてきたとき、その要求が親として納得できたときは、何でも与えてきたと思っています。

 いっぱいの愛情を注いできたし、いまも注いでいると思っています。

 しかし、私たち親の思いと、子どもの受け止め方は違うようです。

 どちらかと言うと、親の思い込みの方が強いようです。

 子どものためにと思って、子どもにさせてきたことが、実は子どもにとっては苦痛と忍耐以外の何ものでもなかったということもあるのです。

 家庭内暴力の15歳の男子が、自分の幼稚園の頃のことを振り返り、母親に向かって

「あの頃のお前は俺に無理矢理に習い事をさせた。

 英会話、習字、スイミング、ピアノと。俺はイヤでイヤでたまらなかった。けど、俺は我慢した。

 俺が上手になると、お前が嬉しそうにしていたから我慢した。今度はお前が我慢する番だ。」

と言ったのですが、母親は息子に返す言葉がありませんでした。

 子どもを自分の思いどおりに育てようと思うと、「子育て」は難しいものです。

 子どもは自らを育てる力を持っているのだから、その子なりの成長の過程に付き合えばいいのだと思うと、「子育て」は、気が楽かもしれません。

「この子はどんな関心をもっているのだろう?」、

 「この子の得意なことは何だろう?」、

 「この子のためにどんな関わりをすればいいのだろう?どんな環境を用意すればいいのだろう?」と、周囲の大人と親が、愛情をもって、その子に「関心を持ち続け」、その子の「成長を見守り続け」るならば、その子は、その子なりに、大きく成長するのではないかと思います。

 本年も、

 よろしくお願いします

2007年

2007年 12月

サンタクロースっているんでしょうか

幼稚園の2学期は本日で終わりです。

 幼稚園での「クリスマスの集まり」は、いかがでしたか?

 子どもたちの成長ぶりに感激されたのではないでしょうか。

 私達が父親あるいは母親になる資格があるから子どもを持ったのではなく、人間として、親としての喜びを与えてくれるために、神様からクリスマスプレゼントとして子どもを授かったと思えば、子どもに対する見方、接し方も違ってくるのではないでしょうか。

 1897年9月21日の「ニューヨーク・サン新聞社」の社説には、8歳の女の子バーバラの質問に対する返事が掲載されました。

 「サンタクロースなんていないんだという、あなたのお友だちはまちがっています。きっと、その子の心には、いまはやりの、なんでも疑ってかかる、疑り屋根性というものが、しみこんでいるのでしょう。

 疑り屋は、目に見えるものしか信じません。

 疑り屋は、心の狭い人たちです。心が狭いために、よく分からないことが、たくさんあるのです。それなのに、自分のわからないことは、みんな嘘だと決めているのです。・・・(中略)

 私達の住んでいる、この限りなく広い宇宙では、人間の智恵は、一匹の虫のように、そう、それこそ蟻のように、小さいのです。その広く、また深い世界を推し量るには、世の中のことをすべてを理解し、すべてを知ることのできるような、深い智恵が必要なのです。

 そうです、バージニア。サンタクロースがいるというのは、けっして嘘ではありません。この世の中に、愛や、人への思いやりや、真心があるのと同じように、サンタクロースもたしかにいるのです。

 あなたにも、分かっているでしょう。世界に満ち溢れている愛や真心こそ、あなたの毎日の生活を、美しく、楽しくしているものだということを。

 もしもサンタクロースがいなかったら、この世の中は、どんなに暗く、寂しいことでしょう。

 あなたのようなかわいらしいこどもがいない世界が、考えられないのと同じように、サンタクロースのいない世界なんて、想像もできません。

 サンタクロースがいなければ、人生の苦しみをやわらげてくれる、子どもらしい信頼も、詩も、ロマンスも、なくなってしまうでしょうし、わたしたち人間の味わう喜びは、ただ目に見えるもの、手で触るもの、感じるものだけになってしまうでしょう。・・(中略)

 サンタクロースがいない、ですって? とんでもない!嬉しいことに、サンタクロースはちゃんといます。それどころか、いつまでも死なないでしょう。

 一千年のちまでも、百万年のちまでも、サンタクロースは、子どもたちの心を、いまと変わらず、喜ばせてくれるでしょう。」

  (『サンタクロースっているんでしょうか?』偕成社より引用)

 「嘘だよ! サンタさんなんていないよ! あれはお髭をつけているだけだよ!」と、クリスマス会の会場に現れたサンタクロースを指差して、子どもがつぶやいていました。

「とんでもない! サンタさんだよ! わざわざ遠い寒い国から『メリー・クリスマス』とプレゼントを持ってやってきたんだよ」と、私はその子どもに言いました。

まずは、私達大人が子どもの頃に抱いてたサンタクロースへの願いと喜びを子どもたちに伝えたいと思います。

 「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(新約聖書 コリントノ信徒ヘノ手紙第一13章4~7節)

 わたし達親は、子どもをこのように受け入れています。こんな愛にはぐくまれた子ども達が、やがて大人になったとき、人を信じ、人を愛する心がはぐくまれるのだと思います。メリー・クリスマス!

2007年 11月

赤ちゃん返り

急に木枯らしがやってきました。

 「子どもが生れました」という知らせを相次いで聞かされると、嬉しくなります。

 ご出産、おめでとうございます。

 幼稚園の子どもたちにとって、弟や妹が生れるということは、嬉しいことでもあるのですが、厄介なことでもあります。

なぜならば、その家における殿様、お姫様として扱われていた自分の地位を赤ちゃんに譲らなければならないことを意味するからです。

 赤ちゃんが生れるまでは、家族の皆が自分のことを注目してくれて、可愛がっていてくれたのに、赤ちゃんが家に帰ったとたんに、お家の人たちの注目は赤ちゃんに集まり、兄や姉には以前ほどは関心を向けてくれません。

 そこで、自分のほうに関心を向けさせるために、子供によってはさまざまな行動をするようになります。

 その代表的なものが「赤ちゃん返り」と呼ばれている行動です。

 おねしょをする、おっぱいを欲しがる、「イヤ、イヤ」の連発、だっこを激しく求める、・・・

 これはすべては、「もっと自分をかまってほしい」という訴えです。

 まだまだ子どもたちはお母さんを必要としています。

 工夫をして、「もっとかまってほしい」という願いをかなえてあげてください。

 ときには、抱きしめてください。あるいは、お父さんやおばあちゃんに赤ちゃんを預けて、半日でもいいですから兄姉と二人になる時間を作ってみてください。

 兄姉はお母さんが赤ちゃんの世話をしていたり、食事の支度をしている忙しいときに限って、母親を求めてきます。

 「あとで!」とか、「お兄ちゃん、お姉ちゃんなんだから我慢しなさい」ではなく、「あの時計の長い針がパンダのところにくるまで待って」と時計の数字の3,6,9,12に動物のシールを貼っておいて、待つ目標を示してあげてください。

 あるいはカレンダーに印をして、「今日が○日だから、あと三つ寝たらお母さんと二人だけででかけようね!」とか、待つことの楽しみを教えてあげてください。

 こんなことの繰り返しの中で、子どものこころの内側に「安心感」が得られて、「自分は忘れられていない、愛されている」と思うようになります。

 そして、そのうちに「赤ちゃん返り」の行動は目立たなくなるだろうと思います。

 別の言い方をすれば、「赤ちゃん返り」は、その子どもがお兄ちゃん、お姉ちゃんになるための一時的な苦難の時、通過点であると言えます。

 (※お母さんもたまには子どもたちのお世話をお父さんにお願いして、一人で羽を延ばす時間を作ってください。母だって、リフレッシュする時間が必要です!!)

2007年 10月

負けて悔しい!

明日は運動会です。子どもたちが幼稚園での仲間との出会いや、先生たちとの関わりを通して、どのように変化・成長しているのかを見ていただきたいと思います。

 明日のプログラムにはクラス対抗の競技もあります。

 年長の子ども達になると、仲間と一緒にひとつの競技を楽しむというよりも、勝ち負けにこだわるようになります。

 このこだわりを持つことは、子ども達の発達段階において当然のことだろうと思いますが、それに対して私達大人がどのように関わるのか、逆に問われているのだろうと思います。

 小学校、中学校と成長するにともなって、個人個人の持ついろんな能力の差は明らかになってきます。

体力的に強いことが素晴らしいのか、体力的に弱いことは情けないことなのか。

 勉強がよくできることが素晴らしいのか、できないことは駄目なことなのか。

 こうした能力本位の評価の中に、あるいは競争原理の中に、子ども達はどうしてもさらされます。

 この現実から逃れることはできません。負けることは悔しいことです。

 走るのが遅くて負けたことは、たとえ顔に表さなくも悔しいことです。

 「悔しい!」という子どもの気持ちをしっかりと受け止めてほしいと思います。

 そして、「走るのが遅くてもいい、あなたが他の誰よりも大好き!なぜなら私達の子どもだから!」

という親のメッセージを繰り返し伝えていただきたいと思います。

 自分の子どもを守るのは、ほかでもない親しかいません。

 自分のことを、そのまま認めてくれて、受け入れてくれる相手を子どもは求めています。

 親は誰でも自分の子どもを愛していると思っています。自分の子どもを大切にしたいと願っています。

 しかし、「愛している、大切にしている」、その中身を吟味する必要があります。

 子どもを愛して、大切にできるためには、子どもはこうあるべきだと条件をつけたり、子どもを自分の望む良い子の枠に力ずくで押さえ込むこともあります。

 しかし、そうすることは、やがて子どもの大人に対する反発のエネルギーを生み出してゆきます。

 子どもが親に反発して反抗する時、子どもは自分がどのように周囲に受け入れられているのか確かめているのであり、同時に私達大人がどのような価値観で子どもを受け入れているのかを問われているように思います。

2007年 8月

「ホッ」とする!? / 目に見えないものを信じる

「ホッ」とする!?

 毎日蒸し暑い日が続いていますが、いかがお過ごしでしょうか。

 お子さまのご様子はどうでしょうか?

 先日、幼稚園の入口あたりで作業をしていると、「園長~!」とわたしを呼ぶ女性の声がします。

 振り返ると卒園児でした。

 いまは市内の大学の1回生です。

 「近くに用事があったのですが、少し遠回りをして幼稚園の前を通るようにしたんです。

 そしたら園長先生を見かけて嬉しくて声をかけました。」

 嬉しくて、なつかしい再会でした。

 彼女にとって幼稚園は「ホッとするなつかしい思い出の場所」だそうです。

 県外の友人がたまたま幼稚園に子ども達がいる時間に私を訪ねてきて、しばらくの時間、園庭で遊んでいる子ども達をくつろいだ顔で眺めながら、

 「いいねー、こういう子ども達の様子を見ているのは。ホッとするよ」

と言っていました。

 またピアノのレッスンで幼稚園に来ている卒園児も、

 「よかったなあ、幼稚園の時代は! もう一度、幼稚園の子どもになりたいよ」

と口をそろえて言います。

 子どもたちがいる幼稚園に足を踏み入れると、気持ちがホッとさせられ暖かくなるのはどうしてでしょう。

 気持ちがホッとできるのは、幼稚園が安心と暖かさが感じられる世界だからではないかと思います。

 幼稚園の敷地に足を踏み入れると、そこには泣いている顔、笑っている顔、怒っている顔、寂しそうにしている顔、微笑んでいる顔、いろいろな人間のありのままの表情が見られます。

 たまたま見かけたカレンダーの下段に

 「心のありようをうつしだし人の顔はつくられてゆく。

 たっぷり泣いてたっぷり怒ってたっぷり笑っていつしか地蔵の顔になれるのでしょうか」

と書かれていました。

 私たちはいつの間にか、大人になるにつれて、自分のありのままの心の顔を見せなくなります。

 思っていることがすぐに顔に出てしまう人は軽薄な人間という先入観があって、怒りの感情を殺したり、作り笑いをしてしまいます。

 本当は、その時々の感情を思う存分に表現したいし、そうすることで豊かな味わい深い顔は作られてゆくのでしょう。

 子どもたちが必要としているのは、一人ひとりがその時々の思いや感情を、ありのままに表現できて、それが受け入れられる世界だと思います。

 泣いてもいいよ、笑ってもいいよ、怒ってもいいよ、と受け入れられ、愛されて、抱きしめられる大人の存在を必要としています。

 そして、子どもたちとのそのような関わりの中で、私たち大人も忘れていた感情を取り戻し、癒されていくのではないでしょうか。

 どんな子どもでも、ときに、あまりにも可愛くて、思わず手を出して抱きしめたくなる時があります。

 そこには豊かな関係が育っています。

 ある意味では、子どもが大人を親として育てていると言えます。

 子どもにとっても、私たちにとっても、親にとっても「ホッと」できて共に育っていく幼稚園でありたいと願っています。 目に見えないものを信じる

 半世紀前に26歳という若さでこの世を去った「金子みすず」という女性詩人のことを詳しく知らされたのは、山口県仙崎の「みすず館」を昨年の夏に訪れたときでした。

  星とたんぽぽ

 青いお空の底深く、

 海の小石のそのように、

 夜がくるまで沈んでる、

 昼のお星は眼にみえぬ。

  見えぬけれどもあるんだよ、

  見えぬものでもあるんだよ。

 散ってすがれたたんぽぽの、

 瓦のすきに、だァまって、

 春のくるまでかくれてる、

 つよいその根は眼にみえぬ。

  見えぬけれどもあるんだよ、

  見えぬものでもあるんだよ。

 「子どものことを信じて、その子どもに最低限に必要とされていること以外は手出しもせずに、ハラハラドキドキしながらもじっと見守っていれば、子どもはそれなりの段階を経ながら自立へと向かって歩んでいく力を持っています」と、何度も聞かされても、やっぱり目の前の我が子のことは、いつまでも心配です。

 「見る、聞く、触る、臭う、味わう」という五感でその存在を確認できるものしか信じていない私たち親にとって、この「目に見えないものを信じて待つ」というのは苦手なことです。

 そのために、すぐに動いてしまって、手助けという名のもとに、口を出し、手を出して、子どもの自立をいつの間にか妨げている場合が多いようです。

 子どもたちにとって必要とされていることは、余計な手出しや口出しはされないけれど、決して親から見放されているのでなく、暖かい関心を向けられているという体験ではないかと思います。

 子育てには「旬の時期」があります。親が子どもと関われて、また子どもも親との関わりを求めている小学校低学年までの間に、特に幼稚園の時期に、子どもたちと「たっぷり」と関わってください。

 子どもと向かい合っているときに、子どもを育てていながら、子どもに育ててもらっていることに気づきます。

2007年 7月

テレビ・ゲームにどっぷり

子どもの発達の歩みは個人差があって、一概には言えません。

 たとえば4歳の子どもは「こうあるべきだ」という基準はありません。

 もちろん、長年、子どもたちと関わる現場にいると、この子は言葉が少ないかも、言葉が出るのが遅いかも、言葉の数が少ないかも、大丈夫だろうかと心配することもあります。

 あるいは、声をかけても振り向かない、

 大きな声で呼びかけるとやっとこちらを向いてくれた、

 あの子はもう少し喜怒哀楽の表情があってもいいと思うのに多くの場合は無表情、

 大丈夫だろうか・・・。

 あの子は落ち着きがない。長い時間、椅子に座っていることができない。

 自分の興味のない話になると、すっと席を立って自分の好きな玩具のあるところへ行く・・・

 大丈夫だろうか。

 この年齢では言葉や運動、情緒面ではこの程度の発達をするでしょう、という大まかな目安はありますが、それはあくまでも目安で、この目安より遅い子どももいれば、逆に早く発達する子どももいます。

 したがって、たいていはあまり心配する必要はありません。

 毎日が元気で、よく食べて、寝て、元気そうで、活発に動いていて、適当に笑ったり泣いたりしているなら、まずは大丈夫です。

 私たち現場の教師としても、いま、この子はこんな様子だけれども、卒園するころには何とかなっているだろうと、だいたいは楽観的に見ています。

 ところが、この数年、「いや、待てよ! そんなに気軽に受け止めたらだめじゃないかな!?」と、思わざるを得ないような子どもに出会うことがあります。

 その子どもの日頃の生活を保護者の方に聞いてみると、毎日ゲームを2~3時間して、家は寝るまでほとんでテレビがつけっぱなしになっているということです。

 『しゃべらない子どもたち、笑わない子どもたち、遊べない子どもたち-テレビ・ビデオ・ゲームづけの生活をやめれば子どもは変わる』(片岡直樹・山崎雅保共著、メタモル出版)という本を読んで大いに納得するところがありましたので、一部を紹介します。

(14頁以下)・・・以下の6つの項目をチェックしてみてください。

【1】乳幼児からテレビやビデオに子守させる時間が長かった。

【2】朝から晩まで、ほとんどテレビがつきっぱなしの家庭生活である。

【3】子どもはテレビのない生活空間をほとんど体験していない。

【4】子どもは早期教育のビデオが好きだ。

【5】親もテレビ好きで、朝のほうこそテレビがついてないと落ち着かない。

【6】テレビを消すと、子どもが不機嫌になる。

 以上の6つの項目のうちのひとつでも該当項目があり、

 加えてお子さんに「言葉の遅れ」や「表情の乏しさ」の傾向が感じられるようなら、

 今すぐご自宅からテレビ・ビデオを追放して、親子の間で人間的な行きかいをつちかい直すことを考えるべきでしょう。

 これらの項目に該当する「テレビ依存傾向が強い家庭」では、必然的に、

 親子や子ども同士が生身でするコミュニケーションや遊びのチャンスが失われます。

 そんな環境で育つ子どもは、最悪の場合、言葉の出ないまま、

 外見的には自閉症に似た状態に陥ってしまう危険性があります。

 あるいは言葉に目立った遅れはみられないとしても、コミュニケーション能力全体としての発達が不十分となり、

 それが原因となって、学齢期にいたってADHD(注意欠陥/多動障害)やLD(学習障害)に似た状態が

 表面化する危険性があります。

 また、コミュニケーション能力の未熟は、

 思春期前後から青年期にまで尾を引きかねない不登校・引きこもり・非行・神経症などの温床となるとも考えられます。

 以上、一部を引用させていただきましたが、小児科医として大勢の子どもたちとの関わりの中から警告されている内容は実に説得力があります。

 子どもが身体と心を親にまかせてくるのは10歳くらいまでです。

 この時期に子どもたちと生身の人間同士として関わり合ってください。

 子どもたちのこころは親に抱かれることを望んでいます。

2007年 4月

新しい出会い / お母さんと離れたくない!

新しい出会い

 新学期が始まり、各部屋では子供たちの色々なドラマが展開されていて、にぎやかです。

 私達は、子供たちが自分の心を素直に表現できる幼稚園であることを願っています。

 寂しいときには寂しさを、不安のときには不安を、楽しいときには楽しさを、泣きたいときには涙を、嬉しいときには喜びを、そのまま表現しても良いのだというサインを子供たちに送りながら、子供たちのありのままを受け入れるよう心がけています。

 泣きたいのに、歯を食いしばって我慢することを、出来るだけ避けたいと思っています。

 登園の時、お母さんが子供との別れ際に「頑張ってね」と声をかけているのを見かけますが、声かけの言葉としては配慮を要する言葉です。

 頑張ることによって喜びや楽しみが待ち受けていることをすでに知っている子供にとっては「励まし」の暖かい言葉ですが、何も分からず、どう頑張ればよいのか、なぜ頑張らなければならないのか、不安の中にいる子供にとっては「酷」な言葉です。

 幼稚園は頑張らなくても「わがまま」に自分を表現することが許される世界です。

 子供たちは教師や仲間との関わりの中で色々な遊びを展開し、喧嘩したり、仲直りしたり、泣かしたり、泣かされたりする経験を通して人間的に成長してゆきます。

 そのために必要な教職員、遊び道具、環境、保育内容を準備していますが、保護者の皆さんも各ご家庭で準備をしていただきたいと思います。

 特に寝不足にならないように生活のリズムを作ってください。

 体が不調であると、子供の遊びは消極的になったり、時には反対に攻撃的な表現を取ることもあります。

 ご家庭でのこころ配りをよろしくお願いします。

お母さんと離れたくない!

 今年度から初めて子供を幼稚園に通わせる保護者の方の悩みのひとつは、

 「幼稚園に行きたくない。お家にいる」と泣き叫んで登園をしぶる子供を、どのように受け止めればよいのかではないでしょうか。

 子供が幼稚園の前や園バス乗場で、親と別れることを不安がって泣き叫んだり、親の服をつかんで離さないのは無理もないことです。

 裏を返せば、親と一時も離れたくないほど親と素敵な関係が作られているということです。

 幼稚園は子供にとっては未知の世界です。

 そんな見ず知らずの不安だらけのところへ行くことを拒否することは当然のことです。

 こんな時、決して泣き叫ぶ子供を叱ったりしないでください。

 「ほかの子供は楽しそうに幼稚園に行っているのに、うちの子供に限って情けない」という親の感情は、よけいに子供を激しく叱ったり、逆に冷たく突き放したりするのですが、好ましいことではありません。

 あるいは「幼稚園に行ってくれたら、帰ったらおもちゃを買ってあげる」というような交換条件を出したり、「幼稚園に行かないと悪い子になるよ」と脅したりだますようなことは決してしないでください。

それよりも

「幼稚園では先生やお友達が来るのを待っているよ。

 楽しいことが一杯あるよ。

 帰るときは必ず迎えにゆくからね。

 約束するよ。

 さあ、行っておいで。」

というように、きちんと笑顔で突き放してください。

 「果してこの子は大丈夫だろうか」と思いながら、親が不安そうな表情で対応すると、子供も不安になります。

 泣きながら親と別れて幼稚園にやってきた子供は、しばらくは幼稚園でも泣いています。

 自分の抱いている不安の感情を「涙」で表現できることは、その子供にとってはよいことです。

(なかには我慢して泣くこともできない子供もいます。私達が特に心配するのは「泣きたくても泣けない子供」です。)

 泣いている子供を教師が「泣くのはやめなさい」と叱ることは決してしません。

 まずそのような子供を教師はしっかりと抱きしめます。

 泣きたくなるほど悲しくて不安な自分のありのままを膝の上に抱かれて受け入れられた子供は、泣きながらも周囲を見渡し、泣くことよりも楽しいことがあることを少しずつ発見してゆきます。

 新学期が始まって間もない今の時期の年少組は、このような子供を多く見かけます。

 そのためにこの時期は園長や主任も必要に応じてクラスに入り、子供たちが一日でも早く幼稚園に慣れるようにできるだけの配慮をしています。

 泣いている子供や、不安を抱いていながら泣けない子供も、やがては幼稚園にいることの楽しさを発見するようになり、抵抗なく親と別れて幼稚園に通えるようになります。

 しかし、この時が実現するまで、親の不安は解消されないだろうと思いますから、子供の顔つきや表情に疑問を感じたときは、遠慮なく教師に尋ねてください。

 家庭から離れて新しい環境(社会)に歩みだした子供たちを、幼稚園ではできる限りの手だてをして受け入れたいと願っています。

 保護者の方々と協力し合いながら、子供たちの様子をゆったりとした気持ちで見守りたいと思います。

※子育てに行き詰まったり、悩んだりしたときはお気軽に園長にご相談ください。

(089-925-4153 … 園長室への直通電話です。園長しかとりません。不在のときは伝言を入れてください。幼稚園ホームページからメールも送れます。)

2007年 3月

信じ続ける

今日で年長組の子どもたちともお別れです。今日の卒園式の最後、年長組の子どもたちは次のような歌を歌いながら退場しました。

小さな 鳥が うたっているよ

ぼくらに 朝が おとずれたよと

きのうと ちがう あさひがのぼる

川の ながれも かがやいている

はじめの一歩 あしたに一歩

きょうから なにもかもが

あたらしい

はじめの一歩 あしたに一歩

勇気をもって 大きく

一歩 歩きだせ

信じることを わすれちゃいけない

かならず 朝は おとずれるから

ぼくらの夢を なくしちゃいけない

きっと いつかは かなうはずだよ

はじめの一歩 あしたに一歩

きょうから なにもかもが

あたらしい

はじめの一歩 あしたに一歩

生まれ変わって 大きく

一歩 歩きだせ

 この歌を、今日の卒園式に参列された皆さんは、どんな気持ちを抱きながら聞かれたでしょうか

 そして、今日初めてこの歌詞に目を通す皆さんは、この歌からどんなメッセージを受けたでしょうか。

 この歌は「かならず朝は訪れる」ことを「信じ続ける」ということですが、わたしはこの歌を聴いたとき、卒園する子どもたちを親が「信じ続ける」メッセージとして受け止めました。

 私たち親は「子どもを信じている」と当然思っています。

 しかし、ある時は親の側の一方的な思い込みであり、子どもの側からすれば「親から全然信じられていない、認められていない」と思っていることもあるのだということを忘れないでください。

 小学校は幼稚園とはまったく違う世界です。否応なしにさまざまな尺度で子どもたちは評価されます。小学校という新しい世界で生きていくために、子どもたちは緊張の連続です。いつも気を張りつめています。

 そんな子どもたちにとって「ホッとする居場所」が必要です。「ここでわたしは受け入れられている、認められている、信じられている」という居場所です。

 子どもによっては「家庭は居場所でない」と言います。なぜでしょう。

 親は子どもを放っているわけではありません。子どものために一所懸命です。親の一所懸命さに見合う努力や結果を、子どもが出している限り、「よい子」としてどうしても認めようとするところがあります。

 そんな親のあり方に対して、子どもは敏感です。いつでも親にとって「よい子」であり続けることはできません。

 子どもが求めているのは、そんな条件付きではなく、いわば無条件にありのままの自分を受け入れてくれて、自分のことを信じ続けてくれるところです。それが子どもにとっての居場所です。

 中学に入り、どの子どもも思春期を通り抜けなければなりません。この時期は相当の「こころの揺れ」というものを経験します。そして、多くの子どもたちが自分の問題として、自分で背負っていかなければなりません。

 そんなときに、不機嫌な顔をして自宅に帰っても、余計な口出しもせず、手も出さず、そっと背後から見守ってくれる「居場所としての家庭」が必要です。

 確かなことは両親の遺伝子を引き継いだ「我が子」です。「親もこうしてなんとかして生き抜いてきたのだから、この子もきっとなんとかする」と、腰を落ち着けて「信じ続けて」ください。

 親の心の中に「生ゴミ」がたまり、どしても吐き出したくなったときは、園長を思い出してください。

2007年 1月

子どもの心

2007年が始まりました。今年もよろしくお願いします。たくさんの年賀状をありがとうございました。

 昨年は「いじめ」によると思われる子どもの自殺の報道、また「パワハラ」(パワー・ハラスメント)と呼ばれている上司による部下への「いじめ」や「いやがらせ」が原因と思われる自殺の報道は、知らされるたびに、暗い気持ちになりました。

 どのケースも、つらい気持ちを誰にも言えず苦しんでいる本人に、誰かが向かい合い、叱咤激励するのでもなく、人間としての弱さがあるのではないかと責めるのでもなく、ただ気持ちに寄り添って、話を聞いていれば、もしかしたら、悲惨な結果にならなかったかも知れません。

子どもは、つらい気持ちや、苦しい気持ちを、なぜ周囲の大人に言えなかったのでしょうか。あるいは、言わなかったのでしょうか。

 子どもにとっては、周囲の大人や親のあり方が、なかなか言い出せない雰囲気を作っていたのでしょうか。

 いずれにしても、私たち周囲の大人が、とくに子どもといつも身近にいる親が、まず我が子の小さな変化に気づく必要があります。

 長年、弁護士として子どもの「いじめ問題」に取り組んでおられる二木克明弁護士は、『親にも先生にも言えなかった・・・子どもの心』(1万年堂出版)という本の中で、「我が子の非行化を防ぐ20カ条」を紹介しています。

〔1〕幼い時から、温かく接すること。スキンシップや遊び相手になる。

〔2〕子どもが欲しがるからといって、ホイホイ買い与えない。子どもを親の思うとおりにしようと思って世話し過ぎない。

〔3〕子どもの間違いや失敗は、まず理由を聞くこと。理由を聞かずに叱りとばしたり、ましてや、叩いたりしてはいけない。

〔4〕しつけと教育の責任を、学校に任せっぱなしにしない。

〔5〕お小遣いがほしいと言ったら、それが必要なものなら、いちいち小言を言わずに、ちゃんと渡す。

〔6〕子どもとの約束は必ず守る。

〔7〕食卓の団欒(だんらん)が大切。子どもの話題で盛り上がると、なおよい。

〔8〕子どもが、どこで、何をして遊んでいるのか、関心を持つ。どういう相手と遊んでいるかも、関心を持つ。

〔9〕子どもに命令して、服従を強制しないこと。子どもの人格や主体性をちゃんと認める。

〔10〕できのよい兄弟や、よその子と、比較しない。「おまえはバカだ、誰々を見習え!」などと言わない。

〔11〕子どもの前で、他人の悪口を言ったり、あら探しをしたりしない。

〔12〕感情で物事を解決しない。暴力に訴えたり、集団の力を悪用したりすればいい、ということを子どもに教えない。

〔13〕子どもがよいことをしたり、努力したら、しっかりほめる。ごまかしや裏切りなどは、決して許さない。

〔14〕子どもの前では、夫婦の意見を一致させる。難しい問題から逃げない。

〔15〕子どもの異性の友だちのことを、不潔呼ばわりしたり、悪口を言ったりしない。

〔16〕子どものためにした苦労や犠牲を、繰り返し話して、恩に着せたりしない。

〔17〕お金こそすべて、という価値観を持たない。精神生活の大切さを教える。

〔18〕子どもの前で、法律、警察、学校、役所の悪口を言わない。社会の決まりや公共機関への敵意を植えつけない。

〔19〕社会や人のため、犠牲、奉仕の大切さを教える。自分のことばかり考えない。夫婦仲良く、会話すること。

 もし、「これは十分でないな」と思い当たる点があれば、今年の課題としてみてください。周囲の大人や、親の心の持ち方で、子どもの心のあり方も変化してきます。

 子どもは、友だちからいじめられていても、なかなか簡単にはその事実を親や教師には言いません。自分がいじめられていることを認めることは、自分がいじめられるにふさわしい人間であることをも認めることになりますから、簡単には助けを求めることはしません。

 しかし、我が子が「もしかしたら、いじめられているのでは?!」と心配なときには、親の方から子どもに積極的に聞いてください。

 「学校でつらい思いをしているのだったら、話して! あなたは父さんと母さんの大事な子どもよ!だから、あなただけの問題ではない。父さんと母さんの問題でもある。父さんも母さんもいじめられているのと同じ!なんとしても、あなたを守りたい!」

 はっきりと親の気持ちを伝えてください。すぐには子どもは話さないかもしれませんが、きっと近いうちに打ち明けてくれるだろうと思います。

 逆に、我が子が「いじめる側」に加わっていることに気づいたときは、それが人間として恥ずかしい行為であることをはっきりと教えてください。

 そのとき、あれこれ理屈を言うより、感情的になってもかまいませんから、我が子が弱い者いじめをしていることを知ってショックだったこと、人が傷つくのを喜ぶことに強い怒りを感じたこと、そして、最後に必ず「あなたは我が家の大事な子ども、宝!」であることを伝えてください。

2006年

2006年 12月

お言葉どおりに

今日で2学期は終わりです。クリスマス会は、子ども達とゆったりとした気持ちで向かい合いたいという願いで、保護者の皆さんにはご無理をお願いして、3回にわけて行いました。ご理解とご協力をありがとうございました。子ども達と、どんな出会いをされたでしょうか。

 子ども達は見事に、降誕劇も、リズムプレイも、合唱も、合奏も、本番を演じてくれました。

 見る側の私たちには、相反する2人の自分が見ています。

 「無事に、やってくれるだろうか?」と大いに心配する自分と、「大丈夫、きっと、見事にやってくれる!」と子ども達を信頼する自分です。

 子ども達を心配する自分が大きいときは、子ども達は大いに心配させてくれるようなことをしてくれます。

 子ども達を信頼する自分が大きいとき、子ども達は見事にやり遂げてくれます。

 12月に入って、クラスによっては、流行性の嘔吐・下痢のために、全員がそろわない日が何日もありました。本番は大丈夫だろうかと、少なからず心配しましたが、子ども達から、「信じる」ことの大切さを教えられました。

聖書に示されているクリスマスの主役は神御自身です。戸惑っているマリアに対して「主があなたと共におられる」「神にできないことはなにひとつない」と天使は告げます。

人生経験が豊かになるということは、人生というものが自分の計算どおりに、あるいは自分の思うとおりにならないことを知ることである、と言われたことがあります。

 この言葉は、思いがけない災難や不幸に遭遇することを暗示する言葉ですが、思いどおりにならないということは逆に、もしかすると、自分が思っていた以上の素晴らしいことを体験することがあるということでもあります。

私達は物事を実行する時、前もって、できるかぎり綿密な計画と準備をします。そして自分達の力で成し遂げることができるかどうかを慎重に吟味します。

しかし、聖書の中に描かれているマリアの生き方は、違いました。

マリアは「お言葉どおり、この身になりますように」と答えました。

 この言葉は、マリア自身にイエスの母となる自信があったからではなく、また自分がイエスの母となる人物にふさわしいと自負したからではありません。

 ただ「主があなたと共におられる」「神にできないことはなにひとつない」という天使の言葉を信じて、身を委ねたのです。自分は無力でありなにもできない人間であると座り込まずに、その無力さを神にさらけ出しながら、神に対する謙虚さをどこまでも持ち続けていました。

 この生き方がイエスの母マリアの信仰でした。

わたしは、子どもは、神さまから私たちに託された贈り物だと思っています。

 神さまからの贈り物ですから、託された側の私たちには、まだまだ見えていない可能性や、力、賜物を、子ども達は持っているのだろうと思います。

 だから、子ども達が本来もっている可能性や力、賜物を「信じる」ときに、子ども達は、私たちの予想と想像を超えることをするのだということを、今回のクリスマス会で教えてくれました。

 子ども達に、「ありがとう!」の言葉を贈りたいと思います。

 冬休みの間、子ども達とたっぷりとかかわってください。子ども達にとっては、「親とともに過ごす時間」が、最高のクリスマス・プレゼントです。

2006年 12月

人見知り

幼稚園に見学に来られたお母さんが抱いていた赤ちゃんに、「おいで!」と手を差し伸べると、急に顔を背けて泣きだしました。

 「すみません! この子、近頃、急に人見知りするようになったんです。前までは、誰にでもニコニコとしていたのに、急に変わってきたんです!」と、お母さんは恐縮していました。

 「いや、いや、お母さん、人見知りをするようになることは、お子さんが順調に育っているということなんですよ!」 「そうなんですか?!」お母さんは、とても驚かれていました。

 「そうなんですか?!」お母さんは、とても驚かれていました。

 一般的に赤ちゃんは7、8カ月くらいになると、日頃から慣れ親しんでいない人から、声かけられたり、あやされたりしたときに、泣き出します。このことは、ほとんどの子どもに見られる自然な発達段階です。慣れ親しんでいる家族には安心できるのに、見知らぬ人には不安を感じる。これが、いわゆる「人見知り」です。つまり、親子の関係がしっかりと成立しているという証しです。

 いつも自分のことをお世話してくれる母親、遊んでくれる父親や兄弟姉妹と、ほかの人達との違いをはっきりと区別できるようになったからです。

 赤ちゃんは自分だけの力では生きていけません。何もできません。いつも不安の中にいます。この不安を解消してくれて、守ってくれる唯一の頼りは家族です。特にお母さんの胸はもっとも安心できる場所です。不安や危険を感じたときに、しっかりと受け止めてくれて、自分を守ってくれる「安全基地」です。

 ですから、赤ちゃんが大いに人見知りをするということは、自分にとって安全と危険をはっきりと区別しているということです。

 もし、赤ちゃんが誰にでも抱っこされて、ニコニコしていると、親子関係がうまくいっていないのかなと、逆に心配してしまいます。

 その子どもにとっての適当な時期が来れば、見知らぬ相手にかかわろうという挑戦もはじめます。安心感を確かめながら、不安を乗り越えながら、新たな体験を求めて、自分の未知の世界を広げようとします。

 「この間、主人の実家に久しぶりに帰ったとき、おばあちゃんが抱っこすると、大泣きしたんです。そしたら、おばあちゃんが、 『この子、かわいくないね!』と言うもんですから、恥ずかしかったんですけど、よかったんですね!」と安堵されていたお母さんが印象的でした。

 赤ちゃんの時期に、しっかりと抱いてあげてください。「抱き癖がつくから、しょっちゅう抱くのはいけない!」ということを耳にしますが、決してそんなことはありません。赤ちゃんを抱き過ぎて、赤ちゃんが変になるということは、絶対にありません。

(たしかに、肩が凝ります。腰が痛くなります。年を取ると後遺症?も出てきます。しかし、肩や腰の痛み、腕のしびれは、かつて幼い我が子達ととともにすごした暖かい思い出を運んでくれます。)

 頭をなでられながら、ほほを寄せられながら、ほほえみかけられながら、大好きなお母さん、お父さんに抱っこされているとき、子どもは「自分は大事にされている、大切にされている」と安心感を持ちます。

 安らかに、安心しきって眠っている子どもの寝顔を見るながら、親である私たちも慰められ、力を与えられます。

2006年 9月

もうすぐ運動会!

来週10月3日火曜日は運動会です。

 小中学校の運動会はもちろん、多くの幼稚園が土・日曜日や休日に運動会を実施していますので、なぜ勝山幼稚園が平日なのか、よくご質問を受けます。

 ごもっともな疑問だと思いますが、勝山幼稚園は、このように思いと願いが込められています。

 平日に勝山幼稚園が運動会を実施しているのは勝山幼稚園が始まって以来のこだわりであり、大きく3つの理由があります。

■まずひとつは運動会は普段の保育の一環であるということです。

■そして、勝山幼稚園はキリスト教会である松山古町教会の附属幼稚園として始まっており、日曜日は教会の礼拝と重なり、施設の使用が出来ません。

■もうひとつは、子ども達の日頃からなれ親しんでいる幼稚園の園庭で実施したいという思いです。

 運動会は幼稚園の大きな行事のひとつです。しかし、幼稚園にとっては特別な行事ではなく、普段の保育の一環です。 この行事のために、子どもたちが教師に叱られたり、励されながら、一所懸命に練習と準備を重ねて、保護者の皆さんの前でその成果を発表するという場とは考えていません。

 もちろん、子ども達にとっては初めて踊る踊りであり、競技種目ですから、どうやって踊るか、どうやって競い合うか、そのことを覚えるために、繰り返しの練習をします。

 特別の行事ではなく、普段の保育の一環としての行事ですから、土曜日や日曜日、あるいは祝日ではない普段の日に行います。大勢の見物人の前では、子どもたちは緊張をして、なかなか日頃の自分のありのままを表現することは困難でしょう。

 運動会は、日頃、幼稚園において子どもがどのように過ごしているのか、ありのままの姿を見ていただくときです。仲のよい友達は誰か、入園当初は自分の身の回りことも十分にできなかった子どもが、どのように大きく成長したのか、どんなことに興味を持っているのか、そして仲間への心遣いをするまでに人間的に豊かに成長していることなど、子どもの動く姿を見ながらさまざまな発見をしていただくときです。

 そのような機会だからこそ、多くのお父さんたちの休日である土曜日や日曜日・祝日にしてほしいと言われるのは、もっともなご意見です。

しかし、さまざまの職種に就いておられる保護者のみなさんの職場の休日は、必ずしも土曜日や日曜日・祝日に限りません。

 次に子ども達がなれ親しんでいる幼稚園の園庭で実施したいという思いと、園庭の広さの問題があります。

 確かに、土曜日や日曜日・祝日に運動会をすると、卒園児たちも見に来ることができます。毎年11月3日に行われるバザーのことを思い出してください。園庭に満杯の人出です。もし土曜日や日曜日・祝日に運動会を行うと、園庭に入りきれないほどの人出になるでしょう。

 それでは近隣の小学校の校庭を借りて実施してはどうかということになりますが、子どもたちには日頃から慣れていて、自分の居場所を見出している幼稚園という場で、ありのままの自分を十分に表現してもらいたいと願っています。

 どうか、平日の運動会の日には、何とかご都合をつけていただいて、子どもたちの普段の姿を見に来ていただきたいと思います。

 何かとご不便をおかけしますが、上記の趣旨をご理解いただければ幸いです。

2006年 7月

口うるさい母親

 「どうしても子どもに口うるさくなってしまって、ちょっと反省しているんです。『さぼってばかりいないで、もっとしっかりしなさい!』『ちゃんと、勉強しなさい!』『いつまで、プレステやってんの!』・・・こんなにガミガミと子どもを叱っている自分がいやになります」というある母親の嘆きを聞いたことがあります。

 母親がそのように口うるさく子どもを叱らざるを得ないのは、多くの場合、父親が父親としての役割に熱心でないように思います。

 かつての父親と母親の役割はこうでいした。

 「こんなに言うことをきかんやつは、家を出ていけ!」と怒鳴り声をあげて、子どもを叱り飛ばすのが父親の役割(父性原理)で、その横で、「お父さん、そんなにきついこと、いわんでもええやないの!どんなに言うことをきかん子でも、わたしが産んだ子よ!」と、子どもをかばうのが母親の役割(母性原理)でした。

 ところが、今は、父親が父親の役割を果たしていないと、どうしても母親が父親の役割もしなければならなくなります。

 私たち親や周囲の大人達は、どうしても子どもの欠点がすぐに目につくので、いつの間にか、子どもを注意するという父性原理を働かすことのほうが多くなります。

 そうなると、子どもの側からすれば、自分は守られていない、受け入れられていない、自分はダメな人間なんだ、というような感覚を持たざるを得ません。子どもの周囲から母性原理がなくなっているような気になるのです。

 そして、大好きなお母さんから認めてもらうためには、ほめてもらうためには、お母さんの言うことをきかないと仕方なくなります。

 お父さん、お母さん、いまいちど、子どもに対するお互いの役割を話し合いませんか。

 たとえば、お父さんが日頃お母さんが子ども達に繰り返して言っていることを、お母さんの上をいく厳しさでズバリ言います。

 「毎日、毎日、何時間もプレステをやって!いい加減にしろ!いいか、今度からプレステをやるのは、土日か休日だけだ!しかも、一回の遊ぶ時間は1時間だけ! 約束を破ったらプレステを取り上げるからな!」と。

 そして、お母さんは、「お父さん、そんな取り上げるなんてきつこと言わんとって! ねぇ、みんなちゃんと約束、守れるよねぇ~!」と、やさしく言うのは、どうでしょう。

 子どもが育っていくためには、バランスのとれた父性原理と母性原理が必要です。

ところが、子どもの側から見たら、父性でもない母性でもない、中途半端な原理が家の中を仕切っているような感じではないでしょうか。

 最後に誤解のないように付け加えますが、父親が母性原理として、母親が父性原理として機能することも一向に差し支えありません。そして、もちろん、父親か、母親が両方の役割をしてもかまいません。事情によってそうせざるを得ないときは、不思議と両方の役割をこなせるものでして、子どもも納得します。

2006年 6月

大人をからかうとは?!

「園長のおなか、おおきい! 何がはいっとん?」、「園長ブリブリ、からあげくさい!」「園長ブリブリ、うんこくさい!」・・・今日も大きいバスから降りてきた子ども達が、門に立っていたわたしを見つけてニコニコしながらからかいます。

 そこで、わたしもすかさず、「園長のおなかには宝物がはいっとんよ!ほしいやろ!」、「○○ブリブリ、からあげくさい! オッハよ!」と怒った口調で言い返します。

 子どもは「ヤッター!」というような嬉しそうな顔をして保育室のほうに走ってゆきました。

 このあたりの子どもの心理を『子育てにとても大切な27のヒント』(汐見稔幸、双葉社)にはとても分かりやすく解説しています。

 「みさえ~」「ひろし~」と、親を名前で読んでみたり、「ケツでか~」などと、親が気にしていることをわざと言ってみたり。

 しんちゃんが得意な、こうした親をからかうことばにまゆをひそめる人もいますが、親子の信頼関係が作れていなければ決してでてこないものです。

 しんちゃんは、母親にお尻をよく出して見せます。母親は「下品だからやめささい!」としかるのですが、しんちゃんにとっては軽いいたずらであり、親がそのように反応するのを喜ぶのです。

 これは、親と子の信頼関係がしっかりとできているという証拠です。親に対して恐怖心があれば、そんなことはできません。

 4~5歳のころは、ことばの数が爆発的に増えてきて、ことばを使うことで自分のまわりの世界を動かすことができることに、子どもは興味と関心を持つようになります。

 たとえば、ちょっとしたことで他人をからかって、相手がそれに何らかの反応をすることを楽しむのです。

 しかし、子どもはからかう相手をちゃんと見ています。ちょっとぐらいからかっても、絶対に自分のことをひどく叱らない、嫌いにならない、と本当に信頼している両親や身近な大人をからかいます。

 決して大人をばかにしているわけではありません。言葉だけで遊んでいるのです。その人に特定のことばを使って、かからかって、その人の反応を楽しんでいます。

 「ベンピだのぶよぶよだの、気にしていることを言って親をからかって! 本気になって怒ってしまう自分が情けない」と、マンガの中でみさえさんは反省していますが、子どもにとっては親が本気で怒れば大成功、大喜びです。

 大人の側も喜びましょう。人をからかうことを楽しめる力が子どもについたことを、そういう年齢になったことを。

 何度もこんな遊びを繰り返していると、そのうちに子どもはこの遊びに新鮮さを感じなくなって、ほかの楽しい遊びを見つけていきます。

 明日は、どんな子どもが、どんなことばで園長をからかうのか、わたしなりに楽しむことにします。

2006年 5月

子どものうつ

わたしには、忘れられない出来事があります。それは、ちょうど、40年前のいまごろ、わたしが17歳(高校2年)のとき、その日目覚めたときに、体がとてもだるく、気分も落ち込んでしまって、どうしても布団から起き上がれないのです。

それが、その後、半年ほど続いたわたしの不登校の始まりでした。

当時は「不登校」という言葉はなく、学校へ行けないわたしはただ怠けているとしか、周囲から見られませんでした。 そのように周囲から見られるのがとてもつらく、またわたし自身も学校へ行けない自分を責めていました。心配する親とも、訪ねてくる友人にも会いたくありません。誰とも話したくありません。

ですから、ただひたすら部屋に閉じ籠もっていました。

 一昨年に出版された『こどものうつ 心の叫び』(傳田健三、講談社)を最近読む機会があり、当時のわたしは「うつ状態」に陥っていたのだなあと納得するものがありました。

 この本の最初に紹介されている『飛ぶ教室』(ケストナー、岩波書店)の一文を読んだとき、著者が子どもとどのような姿勢で関わっているのかを示された思いがしました。

 「どうして大人はそんなに自分の子どものころを、すっかり忘れることができるのでしょう?そして、子どもは時にはずいぶん悲しく不幸になるものだということが、どうして全然わからなくなってしまうのでしょう?」

『子どものうつ』に書かれていることを、わたしなりの受け止め方で、一部を紹介したいと思います。また興味を持たれたら本書をお読みください。

 近年わが国では急激にうつ病が増えています。今やうつ病はだれでもかかる可能性のある病気となっています。先行きの不透明な今の時代に生きていると、どうしても漠然とした不安感を抱かざるをえないのです。

 子ども達も、大人と一緒の時代を生きているのですから、大人が抱くのと同じような不安感を抱いても不思議ではありません。

 不適応を起こして学校を休んだり、引きこもったり、リストカット(手首を鋭利なナイフで傷つける行為)をしたり、自殺を試みる子ども達を、今一度、うつ病という視点から検討する必要もあるだろうと思います。

 寝付きが悪くなる、食欲がなくなる、朝は元気がないが夕方になると元気になる、イライラしていて落ち着きがない、友だちと遊ぼうとしないなど、それまでとは違った気になる子どもの様子が頻繁に見られる場合は、専門医に相談されることをお勧めします。

 わたし達周囲の大人は、子どものために「よかろう」と思うことを、子どもに勧めます。そして、子どもにいろんな期待や願いを持ちます。家業を継いでほしい、そのためにそれなりの大学に行ってほしい、それなりの大学に行くためには、それなりの高校・中学に行ってほしい、そのためには小さいときから、それなりのことをやらせてやりたい。子どもによっては毎日、何かの塾やお稽古ごとをしています。

 「そんなことをするのは、いやだ!もっと遊びたい!」と自分の気持ちを全面に主張する子どもは、あまりいません。多くの子ども達は、周囲の期待に応えようとします。親の言う事を聞く「よい子」であり続けたいと思っています。「よい子」は周囲の大人達が可愛がってくれる事を知っていますから。

 子どもにうつ病はどうして起こるのか。その原因はいまだに完全に解明されていませんが、このようなストレスも要因のひとつだろうと思います。

 いずれにしても、「子どものうつ」はその子の心と身体が疲れ果ててしまった状態です。いまは「ひとときの休息がほしい」というサインとも言えます。

 「全力を出す」「一所懸命にする」「何事もテキパキとする」というような考え方を見直すように、わたし達大人に子ども達が体を張って訴えているのかも知れません。

2006年 4月

泣いてもいいよ

幼稚園の新学期が始まって1週間たちました。年少組の部屋から聞こえてくる泣き声は少なくなりましたが、初めてこの幼稚園に入園した子どもたちにとっては不安な毎日だろうと思います。

 泣いている子どもを園バスに乗せたり、保育室の前で教師に預けることは、保護者の皆さんにとっては後ろ髪を引かれる思いだろうと察します。でも、ご安心ください。子どもたちは自分の不安をどこに預けたらよいのかわからないので、ただ泣くしかありません。

 このような子どもたちの不安を、教師はしっかりと受け止めています。泣いている子どもを叱りません。叱咤激励もしません。幼稚園は泣きながら登園してきても許される場所です。

 泣いている子どもたちは、そのうちに少しずつ幼稚園の雰囲気になれてきて、自分の居場所を見つけます。教師の膝の上で泣きながらチラチラと他の子どもたちがどんな遊びをしているのか見渡す余裕ができてきます。そして、泣くことよりも、もっと面白いこと、心が踊ること、つまり「遊び」があることを発見するようになります。

 不安で泣く子どもは、最終的にはその不安を自分自身で受け止めて克服しなければなりません。幼稚園では不安をもっている子どもを「ありのまま」に受け入れています。

 「幼稚園で泣いたら駄目よ!泣いたら恥ずかしいよ!」と周囲から言われて、全く泣かない子どももいます。そのような子どもの表情は固く、泣き出すのをじっと我慢しているかのようです。泣かないようにすることに精一杯で、遊ぶ余裕がありません。

 しかし、そんな子どもも、5月の連休を過ぎると、泣くようになるだろと思います。泣くということは、不安な自分をそのまま外に表現するということです。泣くことができて、肩の力が抜けて、やっと遊びに夢中になれます。

 不安で泣いている子どもを叱咤激励しないでください。「大丈夫、きっと迎えに行くから幼稚園に行っておいで!幼稚園では楽しいことが一杯あるよ!」と子どもを送り出してください。幼稚園での新しい出会いは、子どもたちに大きな心の変化と成長を与えるでしょう。そして一人ひとりの子どもたちが、他人とは違う「自分」発見し、表現できるようにと願っています。

2006年 3月

1年生になったら

●1年生になったら(保護者のみなさんへ)

 年長の子供たちとは今日でお別れです。4月からはピカピカのランドセルを背負って小学校に通いはじめます。

子供たちの後ろ姿は、ランドセルが歩いているようで、「ついこの間産まれたばかりなのに、こんなに大きくなって・・・」と喜ぶ反面、「まだ小さいのに大丈夫だろうか」と心配もするでしょう。 幼稚園ではたくさん友達を作り、遊ぶことが子供たちのするすべてでした。

 しかし、小学校に入りますと「学ぶ」ということが加わってきます。学年が上がるとともに、学ぶことの比重は段々と大きくなってきます。

子供たちは幼稚園では経験しなかった苦労や辛さを少しずつ担うことになります。このことは子供たちにとっては大変なことだろうと思います。

「毎日学校へ行って当たり前」「毎日宿題をしていって当たり前」、それらのことができなかったり、しぶる子供は「落ちこぼれ」-このような基準で一方的に決して子供たちを評価しないでください。家庭こそが、その子の「ありまま」を受け入れる場所であり、子供のこころを癒し潤いを与える「オアシス」であって欲しいと願っています。

 「自分のことが身近な周囲の大人たちから受け入れられていて、自分のことを大切に思ってくれている」という繰り返して与えられる子どもたちへのメッセージこそが、これからの子どもたちを支えていきます。

 ●卒園するみなさんへ

 今日でみなさんとはお別れです。園長は、みなさんと別れることは、悲しいけれども、こんなに心も体も大きくなった皆さんを幼稚園から送り出すことを嬉しく思います。しかし、このお別れは、もうみなさんと二度と会わないという永遠の別れではありません。ここで、みなさんと約束をします。この約束は口に出す言葉による約束ですが、園長とみなさんの心にお互いに刻みつける大事な約束です。これから小学校、中学校、高校と、みなさんは進学をしていくにしたがって、いろいろな出来事にであいます。嬉しいことはもちろん、悲しいこと、つらいこと、苦しいこともたくさんあるだろうと思います。悲しいとき、苦しいとき、つらいとき、どうか幼稚園でのことを思い出してください。幼稚園の先生たち、園長を思い出してください。幼稚園では、みなさんは、ひとり一人大事にされていました。そして、どうしても、つらくて、苦しくて、悲しく、そのことを親にも友だちにも、誰にも言えないとき、園長のところに来てください。話しに来てください。みなさんが背負っている重い荷物をおろしに来てください。たとえ、周囲の人たちが、みなさんの「あなたが悪い、あなたが悪い」非難しても、幼稚園の先生たちと園長は、絶対にみなさんの味方になり、みなさんを守ります。これが、みなさんと最後にする固い約束です。

 それでは、さようなら!お元気で!

2006年 1月

子どものために!?

明けましておめでとうございます。大勢の皆さんから年賀状をいただき、ありがとうございました。

 お正月の間、子ども達はおじいちゃんやおばあちゃん、そして親戚のおじさんやおばさんから、お年玉の袋をたくさん集めたのではないかと思います。子ども達の嬉しそうな顔が想像できます。

 子どものためによいことをしたい、子どもの喜ぶことをしてあげたいと思うのは、周囲の大人の自然な気持ちです。

 ましてや親であるならば当然のことです。

 しかし、親が子どもに何をすることが、本当に子どもにとってよいことなのか、なかなか簡単に分かるものではありません。 親からすれば、「この子にこんなことができるようになってほしい」、「こんな子どもになってほしい」という期待や願いから、お稽古ごとや塾に通うことをすすめます。月々の月謝が少々負担になっても、「子どものため」と納得しようとします。

 本当にこれでいいのだろうかと、これでよかったのだろうかと、私自身3人の息子達とかかわってきて、いまだにはっきりとした答えを出すことができていません。

 (わたしの息子は長男が24歳の大学院生、次男が19歳の大学生、三男が13歳の中学生です。)

 ある肌寒い日、自由遊びの時間帯に園庭のポカポカとお日さまの当たるベンチに座っていると、子どもが隣に座ってきて、いきなり、「園長、ぼくは疲れた! ぼくはあんまり遊ぶ時間がない!」と言います。話をよく聞いてみると、その子どもはピアノ、スイミング、公文、英会話に通っているそうです。

 「そんなにいっぱい行って、しんどいの?」

 「まあね、だけど、いかないかんのよ!」

 「いきたくないのだったら、お母さんに言って、やめたら!」

 「う~ん!?やっぱり、いかないかんのよ! 今日もあるんよ!」

 子どもの顔はあまり楽しいそうではありませんでした。

 親の言い分は「子どもがしたいというのでやらせています」だろうと思います。たしかに子どもの話をよく聞いてみると、ピアノもスイミングも公文もけっして嫌いではありません。行けば友だちに会えるし、それなりに楽しいそうです。「だけど・・・」なのです。

 本当のところは、子どもは自分が何をするのが楽しいのか、何をしたいのか、したくないのか、自分でもよく分かっていないのだろうと思います。

 子どもは世界で一番頼りにしているお母さんやお父さんから「やってみない」と言われて、「そうかなあ!?」と何となく思い込んで、「とりあえず」やっているのだろうと思います。

 正月に帰省した長男が大学卒業後の進路についていろいろと悩んでいるのを聞きながら、24歳当時のわたしが思い出されました。その頃はわたしも大学院に在学中で、卒業後は何をすればいいのか、いったい自分は何を望んでいるのか、自分自身の気持ちがよく分かりませんでした。そしていくつかの出会いと転機を与えられて、教会の牧師と幼稚園の園長としてここに赴任してきたのは39歳のときでした。

 だからわたしが長男に言えたことは、「いっぱい悩んだらええわい!お前が試行錯誤の末にに出した結論を親として精一杯応援するから」でした。

 これから子ども達はたくさんの経験を重ねて、たくさんの成功と失敗を試行錯誤の体験をしていながら、いつかは自分の道を見つけていくだろうと思います。自分の見つけた道は、他の誰かに教えてもらったり、強いられた道ではありません。それゆえに「自分の能力からすれば、こんなものかな」とも思えるし、「自分にはこれしかない、これしかなかった」と納得することもできます。

 親が子どもに絶対に間違いのない子どもに合った道を指し示すことはできません。結局は子ども自身が試行錯誤のジグザグの道を歩みながら、体験と経験を重ね、選びながら、納得していく歩みが必要なのだろうと思います。

 今年も子どもの歩みのそばに立ちながら、子どもにハラハラドキドキしながら、子どもを信じて共に歩みたいと思います。

2005年

2005年 12月

サンタクロースっているんでしょうか?

幼稚園の2学期は本日で終わりです。幼稚園での「クリスマスの集まり」は、いかがでしたが。クリスマスの「暖かさ」を届けてくれた子供たちに感謝したいと思います。

 1897年9月21日の「ニューヨーク・サン新聞社」の社説には、8歳の女の子バーバラの質問に対する返事が掲載されました。

 「サンタクロースなんていないんだという、あなたのお友だちはまちがっています。きっと、その子の心には、いまはやりの、なんでも疑ってかかる、疑り屋根性というものが、しみこんでいるのでしょう。

 疑り屋は、目に見えるものしか信じません。

 疑り屋は、心の狭い人たちです。心が狭いために、よく分からないことが、たくさんあるのです。それなのに、自分のわからないことは、みんな嘘だと決めているのです。・・・(中略)

 私達の住んでいる、この限りなく広い宇宙では、人間の智恵は、一匹の虫のように、そう、それこそ蟻のように、小さいのです。その広く、また深い世界を推し量るには、世の中のことをすべてを理解し、すべてを知ることのできるような、深い智恵が必要なのです。

 そうです、バージニア。サンタクロースがいるというのは、けっして嘘ではありません。この世の中に、愛や、人への思いやりや、真心があるのと同じように、サンタクロースもたしかにいるのです。

 あなたにも、分かっているでしょう。世界に満ち溢れている愛や真心こそ、あなたの毎日の生活を、美しく、楽しくしているものだということを。

 もしもサンタクロースがいなかったら、この世の中は、どんなに暗く、寂しいことでしょう。

 あなたのようなかわいらしいこどもがいない世界が、考えられないのと同じように、サンタクロースのいない世界なんて、想像もできません。

 サンタクロースがいなければ、人生の苦しみをやわらげてくれる、子どもらしい信頼も、詩も、ロマンスも、なくなってしまうでしょうし、わたしたち人間の味わう喜びは、ただ目に見えるもの、手で触るもの、感じるものだけになってしまうでしょう。・・(中略)

 サンタクロースがいない、ですって? とんでもない!嬉しいことに、サンタクロースはちゃんといます。それどころか、いつまでも死なないでしょう。

 一千年のちまでも、百万年のちまでも、サンタクロースは、子どもたちの心を、いまと変わらず、喜ばせてくれるでしょう。」

  (『サンタクロースっているんでしょうか?』偕成社より引用)

 クリスマスを迎える私達に、改めて問われていることは「信じる」ということではないでしょうか。

 私達は目に見える、聞くことのできる、触ることのできる等、みんなが五感でもって確かに「ある」と確認できるものは信じます。

 しかし、目に見えないこと、わたし達の常識からかけ離れているあり得ないことを信じるのは苦手です。

 クリスマス会の最後にサンタクロースがホールに現れたときの子ども達の目は生き生きと輝いていました。

 「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(新約聖書 コリントの信徒への手紙第一13章4~7節)

 わたし達親は、子どもをこのように受け入れています。こんな愛にはぐくまれた子ども達が、やがて大人になったとき、こんなふうに人を信じ、愛する心をはぐくまれます。メリー・クリスマス!

2005年 10月

運動会

幼稚園の二学期は行事が盛り沢山です。運動会、とべ動物園遠足、どんぐり拾い、バザー、いも掘り、焼き芋会、クリスマスと、ホップ、ステップ、ジャンプの二学期です。保護者の皆さんには幼稚園に来ていただく機会が増えるのですが、家では見ることのできない幼稚園での子どもたちの様子を存分に見ていただきたいと思います。

 明日は運動会です。子どもたちの様子に、家族全体で一喜一憂していただきたいと思います。そして子どもたちが心も体も大きく成長したことを見ていただきたいと思います。

 運動会には順位を争う種目もあります。一所懸命に走ったのに、一所懸命に力を出したのに、競争ですから勝ち負けがあります。負ければ悔しい思いをします。大事なのは、この悔しい悲しい思いを、親がどのように受け止めるのか、どのように慰めるのかです。

 「なんだお前、だらしないじゃないか!一番になることが一番なんだ!」と叱咤激励したり、「力を抜いていたんだろう!諦めないで最後まで頑張れ!」と、わが子が負けた親の悔しさを子どもにぶつけますか?!

 それとも、「いいんだよ、一所懸命にやったじゃないか!実は父さんも走るのは遅かったんだよ!」とか「悔しかったね!一番になりたかったよね!でも、嬉しかったよ、力一杯頑張っていたあなたを見ていて嬉しかったよ」と、言葉をかけますか?

 どのような関わりかたをするのかによって、親子のこころの触れ合いの度合いはまったく違ってきます。

 一所懸命にやればやるほど、力一杯やればやるほど、悔しいし悲しいし、けれどもどこかすがすがしい思いもある・・・そんな体験を親子で一緒にしていただきたいと思います。

 我が家の子どもたちに小さい頃から繰り返して言っていることは「努力、必ずしも実らず!されど、努力以外なし!」です。(実は私自身にも向けている言葉でもあるのですが・・・)

 傷ついた人間のこころを慰めることができるのは、自分の身近なところで自分を見守っていてくれている親です。子どもたちは、自分のこころに真剣に正面から向かい合ってくれる人間関係を求めています。そのような子どもの期待に応えようとする時に、子どもの中に忍耐の心と、さらに頑張ろうとする意欲が出てくるのではないかと思います。

 父親は父親の慰め方があるし、母親は母親の慰め方があります。

 男の子を励ます言葉と、女の子を励ます言葉も当然に異なります。どのような言葉かけをすればよいのか、夫婦で話し合って、大いに悩んでいただきたいと思います。

 父親と母親の言葉かけが違うことが大切です。両親と言えども、二人の違った価値観を持っている大人がいるということが肝心だと思います。

 悔しい思いや悲しい思いを存分に受け止めてくれる家庭があることは、子どもたちにとっては一番の安心です。そして、子どもに一喜一憂し、子供に振り回されることを「煩わしいこと」と受け止めず、子どもに真剣に向かい合うときに、親は父親として、母親として、人間として、子どもに育てられるのだろうと思います。

 連日、運動会の練習をしていますが、園庭のスピーカーから流れてくる音楽に足を止められて、門の隙間からチラッと顔を向けるだけで通りすぎる人、立ち止まって少し見る人、しばらく立ち止まってニコニコと笑いながら見ている人、子どもたちへの興味はさまざまです。

 じーっとニコニコと微笑みながら子どもたちの様子を見ている人は、心ゆたかな幸せな人だろうと思います。

 明日は「ああ~、楽しかった」と、子どもも親も教師も、幸せな思いに満たされる運動会であることを願っています。

2005年 9月

抱きしめる

夏休みが終わり、久しぶりに子どもたちに会って、嬉しく思いました。いろんな夏休みを過ごしたのだろうと思います。2学期もよろしくお願いします。

 最近、新聞で「公共広告機構」がスポンサーになって掲載している「抱きしめるという会話」の詩を読みました。

 がんばれよ。

 ごめんよ。

 愛しているよ。

 そんな言葉を口にするかわりに

 父親たちは我が子を抱きしめたりする。

 父親は母親になれない。

 二の腕や胸板が、おっぱいよりえらくなる

 なんてことは永遠にないだろう。

 けれど、子どもたちがその温もりに包まれていた時期は、

 きっと子どもたちの未来までも包み込んでいて

 やがて子どもたちを支える大切な柱の一本になっていく。

 子どもを抱きしめてあげてください。

 ちっちゃなこころはいつも手を伸ばしています。

 皆さんは父親とどんな思い出があるでしょうか。

 子どもたちは、自分が生きている世界(器)がどれほどの強さを持っているのかを、どこかで試しているところがあるように思います。

 あるいは自分がどのように見守られているのかについて、敏感なのだろうと思います。

 自分が無茶苦茶なことをしても、どこかでちゃんと見てくれていて、度が過ぎたことをしようものなら、自分の前に飛び出してきてくれて、止めてくれる存在を求めています。

 そのような存在が身近なところにいてくれてこそ、子どもたちは安心して自分をありのままを表現できます。

 度が過ぎたことをしようとする子どもの前に、仁王のように立って「これ以上、行くのは許さん!」と壁の役割を果たすことは随分と心のエネルギーがいることです。

 子どもたちが本当に欲しいのは、欲しいときにすぐに玩具を買ってくれる優しい父親でもなく、少々の悪いことをしても大目に赦してくれる優しい父親でもありません。

 子どもたちが求めているのは、自分にしっかりと向かってきてくれて、自分を守ってくれるために思いと関心とエネルギーを向けてくれている父親ではないかと思います。

2005年 7月

やってみる

「やってみる」という言葉は、子どもの可能性を信じて、子どもを前へと押し出していく素晴らしい言葉のように聞こえます。

 確かに新しい体験を「やってみる」ことによって、子どもは成長します。

 ところが、「やってみる」という言葉の裏には、大人の危険で一方的な押しつけの思いが潜んでいる場合があります。 「やれないこと」は、まずは「やってみる」ことによって、できるようになるという前提で、子どもと接しています。

 しかしながら、何度練習をしても鉄棒の逆上がりのできない子どもがいますし、何度やってみてもプールの水に顔をつけることのできない子どもがいます。

 やがて、子どもたちは「やってみる」ことを諦めます。

 そのような「やらない子ども」や「できない子ども」を周囲は「頑張れ!」と叱咤激励をしたり、ときには叱ります。 こんなときに、子どもが求めているのは、いまは「できないこと」を受け入れてくれる相手です。子どもも「できない」ことが悔しいのです。いまの自分を受け入れてくれて理解してくれる相手がいなければ、子どもにとって「やすらぎの場」はありません。

 大人の叱咤激励にいやいやながら促されて、「やってみる」ことが、素晴らしいことだとは単純に言い切れません。

 子どもが新しいことを「やってみる」ときに、「なに」を「だれ」とするのか、そのことが大切だろうと思います。

 子どもたちが全面的に信頼しているのは親です。

 夏休み期間中、なにか新しい「やってみる」をしてください。夏休み明けに体もこころも大きくなった子どもたちに会うのを楽しみにしています。

2005年 6月

信じるということ

「ひとりでお部屋に行ける?」、「今日は幼稚園が終わったら迎えに来なくても大丈夫?」、このように親が子どものことを心配するのは当然のことです。

 しかし、幼稚園に行く子どもを心配して語りかける言葉は、かえって子どもに不安を与えるのではないかと思います。

 子どもに対して抱く親の不安や心配をあらわに表現するのか、あるいは心配しながらも「自分で何とかしてちょうだい。私たちの子どもだからきっと大丈夫!」と信じて、内心はドキドキハラハラしながらも、子どもを信じて、何も言わないで、子どもを送るのとは、子どもの受け止め方に大きな違いがあります。

 子どものは親が抱く自分に対する心配を敏感に感じており、親の表現のしかたによってに、それなりに応えてくれます。 あからさまに心配を表現する親に対しては、「ひとりでは部屋に行けないから、一緒にお部屋まで来て!」、「幼稚園が終わったら絶対に迎えに来て!」と子どもは親に懇願し、親は「仕方ないね~、いつになったらひとりでできるの!」と子どもを責めながら、内心では「いつまでも子どもなんだから」と、子どもに必要とされていることを喜んでいます。

 子どもには、自分で自分をより良い方向に導いていこうとする自立への力と、反対にどこまでも他の人に依存をしていこうとする力を同時に持ち合わせているのではないかと思います。

 子どものことを信じて、その子どもに最低限に必要とされていること以外は手出しもせずに、ハラハラドキドキしながらもじっと見守っていれば、子どもはそれなりの段階を経ながら自立へと向かうのではないかと思います。

 しかし、見る、聞く、触る、臭う、味わうという五感でその存在を確認できることを信じることに慣れている私たち親にとって、この「目に見えないものを信じて待つ」というのは苦手なことです。そのために、すぐに動いてしまって、手助けという名のもとに、口を出し、手を出して、子どもの自立をいつの間にか妨げている場合が多いようです。

 子どもたちにとって必要とされていることは、余計な手出しや口出しはされないけれど、決して親から見放されているのでなく、暖かい関心を向けられているという体験ではないかと思います。

 子どもと1対1で向かい合い、ともに過ごす時間を持っていただきたいと思います。家族みんなが一緒に過ごす時間も大切ですが、ひとりの子どもが親を独占する時間も大切です。

 子どもと向かい合っているときに、子どもを育てていながら、子どもに育ててもらっていることに気づきます。

2005年 5月

見つける!

幼稚園の新学期が始まって1カ月が経とうとしています。新入園児たちは幼稚園での生活に慣れてきたように思います。お家で子どもたちは幼稚園での出来事をどのように報告しているでしょうか。

 子どもたちの遊びは「見つける」ことの繰り返しから始まります。

 これからの時期は水遊びが面白くなります。砂場に穴を掘って、その中に砂と水を入れてスコップでかき回し、両手を泥水の中に入れて、目では見えない泥水の底の世界を発見します。

 園庭には夏の花に植え替えたプランターが沢山あります。それらのプランターを動かして、底に群がっている団子虫と蟻を見つけたり、草むらの中に潜んでいる蛙を見つけたりします。

 自分の中でワクワクするイメージを膨らませながら、新しい世界を見つけようとします。こんな子どもたちの好奇心を大切にしたいと思います。

 ところが、子どもの遊びが活発になると、逆に周囲の私達大人にとっては気になることばかりが起こります。

服が汚れている、言葉使いが悪くなる、イタズラが多くなる、反抗するようになる、オドケやフザケが活発になる、喧嘩をよくするようになる、後片付けをしなくなる、好奇心が旺盛になって何にでも手を出したがる、難しいことでも自分ですることを強く主張する・・・。

このように大人の困ることばかりをするようになるのですが、子どもたちが積極的に遊びはじめた「しるし」です。

 幼稚園では、このような子どもたちの行動を一方的に禁止したり、叱ったりすることはしません。

(もちろん、幼稚園では集団の遊びですから、守らなければならない決まり事があります。年少組の子どもたちには少しずつ覚えてもらっています。たとえば、砂を友だちに向かって投げない、たいこ橋の下には座らない、通らない、回転遊具の中には絶対に入らない、滑り台は必ず階段から登る等々。)

幼稚園では危険性に充分に注意を払ながら、子どもたちが自分の好奇心や気持ちを表現できるようにしています。

 子どもたちは自分で欲しいものを探し求め、期待し、そして自分で見つけた喜びを大切にします。自分が嬉しいときに、その喜びを一緒に喜んでくれる存在を、「ともだち」と呼びます。友だちを一杯見つけてくれることを願っています。

2005年 4月

泣いてもいいよ!

幼稚園の新学期が始まって1週間たちました。年少組の部屋から聞こえてくる泣き声は少なくなりましたが、初めてこの幼稚園に入園した子どもたちにとっては不安な毎日だろうと思います。

 泣いている子どもを園バスに乗せたり、保育室の前で教師に預けることは、保護者の皆さんにとっては後ろ髪を引かれる思いだろうと察します。でも、ご安心ください。子どもたちは自分の不安をどこに預けたらよいのかわからないので、ただ泣くしかありません。

 このような子どもたちの不安を、教師はしっかりと受け止めています。泣いている子どもを叱りません。叱咤激励もしません。幼稚園は泣きながら登園してきても許される場所です。

 泣いている子どもたちは、そのうちに少しずつ幼稚園の雰囲気になれてきて、自分の居場所を見つけます。教師の膝の上で泣きながらチラチラと他の子どもたちがどんな遊びをしているのか見渡す余裕ができてきます。そして、泣くことよりも、もっと面白いこと、心が踊ること、つまり「遊び」があることを発見するようになります。

 不安で泣く子どもは、最終的にはその不安を自分自身で受け止めて克服しなければなりません。幼稚園では不安をもっている子どもを「ありのまま」に受け入れています。

「幼稚園で泣いたら駄目よ!泣いたら恥ずかしいよ!」と周囲から言われて、全く泣かない子どももいます。そのような子どもの表情は固く、泣き出すのをじっと我慢しているかのようです。泣かないようにすることに精一杯で、遊ぶ余裕がありません。

 しかし、そんな子どもも、5月の連休を過ぎると、泣くようになるだろと思います。泣くということは、不安な自分をそのまま外に表現するということです。泣くことができて、肩の力が抜けて、やっと遊びに夢中になれます。

 不安で泣いている子どもを叱咤激励しないでください。「大丈夫、きっと迎えに行くから幼稚園に行っておいで!幼稚園では楽しいことが一杯あるよ!」と子どもを送り出してください。幼稚園での新しい出会いは、子どもたちに大きな心の変化と成長を与えるでしょう。そして一人ひとりの子どもたちが、他人とは違う「自分」発見し、表現できるようにと願っています。

2005年 2月

育てたように子は育つ

 『育てたように子は育つ』(相田みつを書/佐々木正美著 いのちのことば社)という本の中に、次のように書かれています。(63ページ)

 親や大人たちが、自分たちの思い通りに子どもを育てれば、子どもたちは他者の思い通りにしか行動できない人間になる。自主性、主体性、創造性といったものは当然そだつはずがない。

 まず子どもたちは、人と自分を信じることができるように、人生の最初に無条件の愛情に恵まれてから、社会の規範を上等の手本を見せられながら、ゆっくりおだやかに教えられるのがいいのだろう。時代や文化の影響を自分の力で上手に取捨選択できるように、自分の存在価値を実感できるような子どもにしておいてやればいいと思う。あなたはあなたのままで、他にかけがえのない価値がある。君は君の道を、ただひたすらに歩めば、それで十分である。与えるべきメッセージはそれだけであろう。

 結局は、子どもたちは、育てたように育っていく。育っていってくれる。そう信じられる親になりたい、大人になりたいと思う。親が子どもの心を知っているよりも、子どもは親の気持ちをずっとよく知っている、相田さんもそう言っている。「アノネ親は子どもをみているつもりだけれど子どもはその親をみているんだな親よりもきれいなよごれない眼でね」(『しあわせはいつも』所収)

 どの親も例外なく、子どもが生まれたとき、この子がしあわせになってほしいと願っています。・けれども、その親の気持ちの伝え方に、上手と下手、得手と苦手があるのだろうと思います。

 子どもがまず最初に求めているのは無条件の愛情です。自分を愛してくれて、受け入れてくれて、こころと体が安心して飛び込んでいける相手を、なによりも必要としています。

 そんな大人(親)と一緒にいるときに、その人がいやな顔をする、嬉しい顔をするのはどんなときなのか、敏感に感じ取るようになります。

 逆に、わたしたち大人は、そんな子どもの気持ちを感じ取ることに、ときに「鈍感」になってきているのではないかと思えることがあります。

 相手のこころを「配慮する」「察する」「感じる」ということが苦手になっています。

 子ども自身が、自分の気持ちをどのように周囲に表現したらいいか分らないような中途半端な気持ちで困っているときに、「黙っていちゃ、わからないでしょう!」「どうしたの、何がいいたいの!」「何が問題なの!」と立て続けに問い詰めることが多いのではないでしょうか。子どもの側からすれば、言葉に出して言えるまで出来事の体験が煮詰まっていないから話せないのです。

 しかし、親は子どもがいつまでも黙っているから、「話しにならない」ということになります。

 こんなときの子どものこころを察していただきたいと思います。子どもは言葉でどのように表現したらいいか分らずに戸惑っています。そんなときの子どもの視線やしぐさ、子どもの様子を、心のアンテナを一杯に張りめぐらせて感じてください。

 子育ては、言葉以前の関わり合いがとても大切であると思います。

2005年 1月

謹賀新年

明けましておめでとうございます。

 今年もよろしくお願いします。

 たくさんの年賀状をありがとうございました。お礼を申し上げます。この一年が良い年でありまうように祈ります。

 私は新年早々からパソコンに向かっていました。正月2日午前中に執り行われる教会の礼拝の準備のためです。

 パソコンを使うようになってから漢字の「ど忘れ」がひどくなったように思います。歳のせいだと周囲には言われ、妙に納得しているのですが、・・・。

 漢字が書けなくても別に不自由はしませんが、手書きで手紙を出すことはほとんどなくなりました。以前は、親しい友人からワープロの手紙が届くと、何となく、その友人と距離ができたような気がして、寂しさを感じました。

 最近は感情が少し変化してきて、書いても読めないような、そして書いた本人である私自身が後で判読できないような下手な字で書くよりも、ワープロを使って、伝えたいことが正確に伝わる方がよいと思うようになりました。

 しかし、パソコンを使いながら時おり思うのですが、私がパソコンを使うというよりも、パソコンが私を使っているのではないかと錯覚するほど、文章を作る量も、そのためにパソコンに向かっている時間が増えてきました。

 1日のほとんどを園長室にこもって、パソコンの画面を見ているうちに夕方になると、その日は何となく沢山の仕事をした気分になるから不思議です。

 しかし、その一日を振り返ってみると、私が一番大切にしている「人が人と一緒にいる時のぬくもり」を感じることを、全然していないことに気づき、人恋しくなります。

 保育の現場で幼稚園の子どもたちと触れ合い、保護者の方々と顔を合わせる、そのような機会を今年もたくさん持ちたいと願っています。

 OA機器を使いこなすことは確かに便利です。手作業よりもはるかに短時間に大量の仕事をこなし、手紙や電話よりももっと効率的に情報交換が可能です。社会では、このような機械を自由自在に操って、仕事の成果を上げる人が有能であると評価されます。

 しかし、便利な機械を使うことは、一方では本当に大切な何かを置き忘れてしまう現実を作っているのではないかと思います。

 私たち人間にとって、本当の「豊かさ」とは一体なんであるのか、いま一度考えたいと思うのです。

2004年

2004年 12月

クリスマスのお話

幼稚園の2学期は本日で終わりです。

 幼稚園での「クリスマスの集まり」は、いかがでしたが。クリスマスの「暖かさ」を届けてくれた子供たちに感謝したいと思います。

「子は親の鏡」

けなされて育つと、

 子どもは、人をけなすようになる

とげとげした家庭で育つと、

 子どもは、乱暴になる

不安な気持ちで育てると、

 子どもも不安になる

かわいそうな子だ」と言って育てると、

 子どもは、みじめな気持ちになる

子どもを馬鹿にすると、

 引っ込みじあんな子になる

親が他人を羨んでばかりいると、

 子どもも人を羨むようになる

叱りつけてばかりいると、

 子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、

 子どもは、自信を持つようになる

広い心で接すればキレる子にはならない

誉めてあげれば、

 子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、

 子どもは、人を愛するようになる

認めてあげれば、

 子どもは、自分が好きになる

見つめてあげれば、

 子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、

 子どもは、思いやりを学ぶ

親が正直であれば、

 子どもは、正直であることの大切さを知る

子どもに公平であれば、

 子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、

 子どもは、やさしい子に育つ

守ってあげれば、

 子どもは、強い子に育つ

和気あいあいとした家庭に育てば、

 子どもは、この世の中はいいところだと思うようになる

  (『子どもが育つ魔法の言葉』ドロシー・ロー ノルト, レイチャル ハリス,PHP研究所)

 この詩はアメリカ人の母親によって書かれたものです。長い間、さまざまな形で人々に親しまれています。この詩を読んでいると、ひとりの親として思い当たることが沢山あります。

 わたしたちは子どもの成長を心から願っています。子どもの不幸を絶対に望んではいないし、子どものこころを傷つけようとは思っていません。

 けれども、ときには、自分の弱さゆえに、親としての立場を守るために、気づかないところでそうしてしまっていることがあります。

 子どもの望むことをすべて満たしてあげることが子どものためでもないし、親が子どもに望むことを実現するのが子どものためでもありません。

 子どもへのクリスマスプレゼントとして、どんな親の姿を子どもたちに贈ればよいのか、この詩は示唆に満ち溢れているように思います。

2004年 11月

心をかける

子どもが幼稚園や学校から泣きながら帰ってきたとき、皆さんは子どもにどんな関わりをするでしょう。

 「どうしたの? なにがあったの? 誰かにいやなことを言われたの? 何かをされたの? 黙っていて、泣いてばかりいたんではわからないでしょう!」

 このように立て続けに子どもにたずねるでしょう。あるいは、すぐに幼稚園や学校に連絡をして担任の先生に何が起こったのか聞こうとすると思います。

 しかし、子どもにとっては親がこんなにあわてふためいて対応してくれても、嬉しくないでしょう。よけいに戸惑い、心を閉ざすだろうと思います。わたしたちは、子供が泣いていたり、不機嫌に黙っていたりしているとき、じっくりとそのときの子どもの心を聴こうとせずに、言葉で子どもが泣いている理由や黙っている理由を分ろうとしたり、行動を起こしたりすることのほうが多いのではないでしょうか。

 言葉で子どもに理由を質問する前に、あるいは行動を起こす前に、泣いている子どものそばに寄り添ってみたらどうでしょう。

 まずは黙って子どもをしっかりと抱きしめて、子どもの好物をテーブルの上に出して、子どもの気持ちが落ち着くのを待ったらどうでしょう。子どもの悲しみや怒りを黙って、しっかりと受け止める対応もあると思うのです。

 心理療法家の河合隼雄さん(文化庁長官)がよく言われる言葉に、「一所懸命に何もしない」という文句があります。その人に対して一所懸命に心と体を向けるのですが、一所懸命に何もしないのです。その人に具体的なことは何もしないのですが、その人に伝わることはいっぱいある、わたしはそのようにこの言葉の意味を受け止めています。

 やがて子どもの心が落ち着いてきたときに、子どものほうから出来事を語りはじめることもあるでしょうし、あるいは親の側から子どもに尋ねやすいタイミングが見つかります。

 「あのね、今日ね、幼稚園で○○ちゃんが一緒に遊んでくれなかった!」

 「そう! 一緒に遊んでくれなかったので悲しかったの! 一緒に遊んでくれなかったら悲しい気持ちになるよね!」

 「一緒に遊んでくれなかったので、わたしがね、○○ちゃん、大嫌いと言ったらね、○○ちゃんが私のことを大嫌いだと言ったの!」

 「そう、それでよけいに悲しかった!」

 「うん、悲しかった!」

 「本当は一緒に遊びたかったけど、○○ちゃん、大嫌いと言ったんだ! そんなこと言われた○○ちゃん、どんな気持ちがしただろう?」

 「・・・いやだったと思う!」

 「そうしたら、明日幼稚園に行ったら、○○ちゃんに、ごめんねと言ってみる?」

 「うん、・・・」

 親が泣いて帰ってきた子どものことをすぐに言葉で分ろうとする、行動を起こそうとするのは、結局のところは子どもの傷ついた心を置き去りしていて、親自身のための行動になっているように思います。すぐに言葉や行動で子どもと関わろうとするのではなく、まずは親が自分の心を使って、子どもの心に寄り添って、子どもの心をしっかりと受け止めていただけたらと思います。

2004年 9月

運動会

日中はまだまだ暑い日差しですが、朝晩は過ごしやすくなってきました。幼稚園では、これから、運動会、バザー、クリスマスと大きな行事が控えています。この他の行事として、とべ動物園遠足、どんぐり拾い、芋掘り、焼き芋会などが予定されています。まさにホップ、ステップ、ジャンプの二学期です。

 勝山幼稚園の運動会は大きな行事ですが、特別な行事ではありません。この行事のために、子どもが教師に叱咤激励されながら、一所懸命に準備をするという行事ではありません。

 特別の行事ではなく、普段の保育の一貫としての行事ですから、土曜日や日曜日ではない普段の日に行います。土日にすると卒園児や大勢の方々が来られて、子どもは緊張をして、なかなか日頃の自分を表現できません。

 普段の日の保育ですから、子どもはお弁当を持ってきます。何人分ものお弁当を作るのは大変でしょうが、親と一緒にお弁当を食べることを子どもは楽しみにしています。

 運動会は、日頃、幼稚園において子どもがどのように過ごしているのか、ありままの様子を見ていただくときです。仲のよい友達は誰か、入園当初は自分の身の回りのことも十分にできなかった子どもが、どのように成長したのか、どんな興味を持っているのか、そして仲間への心遣いをするまでに人間的にふくらんでいることなど、子どもの動く姿を見ながら様々な発見をしてください。

 園庭を取り囲んで運動会を見る保護者の皆さんは、必ずしも子どもと一緒に体を動かすわけではありませんが、こころを一杯に動かしていただいて、子どもと一緒に楽しんでください。そして家に帰って、「楽しかった!」と子どもと運動会を味わってください。

 運動会を見ているとき、決して裁判官になって、子どもを評価しないでください。他の子供ができていたことが、我が子ができていないことに苛立ちを持たないでください。失敗をしてもいいのです。走るのが遅くてもいいのです。子どもには、それぞれの子どもにふさわしい発達の段階があります。子どもの今の「ありのまま」の姿を受け入れて、これからの子どもの成長を信じてください。

 運動会の準備のために、幼稚園では毎日、子どもを園庭に集めて、リレーをしたり、踊ったり、ゲームをしたりしています。その目的は、子どもがそれらのプログラムを好きになってくれて、夢中になって自分自身を表現するための手助けをすることです。精一杯に表現した自分が、親に受け入れられることは嬉しいことです。

 運動会を通して、こんなにも大きく成長した子どもの姿を喜びたいと思うのです。そして、運動会が終わったら、その喜びを、ご家庭で、子どもたちに伝えてください。親が自分を喜んでいてくれることを知らされることは、子どもにとっては嬉しいことです。その喜びが、子ども自身が新たな自分を表現するきっかけにもなります。

2004年 7月

食生活の見直し

先月6月10日に幼稚園では園医をしていただいている中野博子医師(石丸小児科副院長)に来ていただいて、内科検診を実施しました。後日、中野博子先生より次のようなお便りが届きましたので、全文を紹介させていただきます。

 今年も健康診断が終了しました。

 勝山幼稚園のお子さん方は、毎年礼儀正しく、楽しく健康診断を受けていただけるので、いつも感心しております。

 さて今年は、少し肥満傾向のお子さんが増えてきたかなと言う気がいたしました。

 はっきり肥満という方はほとんどおられませんが、ぽっちゃりした体型のお子さんは増えていると思います。

 今や日本人の子供のコレステロール値は、米国の子供たちよりも高くなり、この子供たちが大人になったときの生活習慣病が心配されています。

 幼児期の食生活は、その人の一生涯の食生活習慣を決めるとも言われており、幼児期に正しい食生活習慣を身に付けさせて、将来の生活習慣病を少しでも予防できるようにしたいものです。

 今お子さん方に正しい食生活習慣を身に付けさせることは、あなたのお子さんに一生涯の健康をプレゼントすることになります。

 では、幼児期の食生活に大切な事をいくつかお知らせしておきたいと思います。

1.毎日、生活リズムを規則正しくして、決まった時刻に、三食と適正なおやつを摂りましょう。

イ.就寝時刻を早めに、毎日一定の時刻とする。

ロ.朝は、早めに起きて、ゆっくり朝食 をとる。

ハ.おやつは、食事の一部と考え、一日 の必要カロリーの15%を目安にする。

 乳製品、果物を中心として、菓子類は 砂糖、脂質、食塩の少ないものを選ぶ。

 手作りのおやつが、一番です。

ニ.夜食は摂らないようにする。(早く寝れば、摂らなくなります)

2.薄味と、和風料理に慣れさせましょう。(塩分、脂質が少なくなる)

3.何でも食べられるように。(いろいろな料理に挑戦しましょう)

4.家族そろって、楽しい食事の時間を持ちましょう。

イ.食事は文化です。

 マナーや、季節の献立、行事の献立など家族一緒に楽しむ事で、次の世代へと受け継がれてゆきます。

ロ.正しいマナーは、親が模範です。

ハ.楽しく食事をする事が、偏食や、小食、過食等を防ぎます。

 食事の場で小言を言ったり、しかったりしないよう心がけましょう。

5.親子共々、楽しく戸外で遊び、体を動かしましょう。

 保護者の方々もお忙しい毎日をお過ごしだと思いますが、お子さん方の健康また家族全員の健康のために、一度食生活を見直してみていただけたらと思います。

 中野先生、ありがとうございます。先生のご助言を日常生活の中に反映することができればと思います。

●お泊まり保育

 年長組の子どもたちは、夏休みが始まると「お泊まり保育」あります。

 昼間に親しんでいる幼稚園の「夜の世界」は、まったく別の世界です。

 子どもたちは「お泊まり保育」を楽しみにしているでしょうか。それとも、親元から離れてひとりで泊まるのは初めてなので、不安に感じているでしょうか。

 不安がっている子どもを、「来年は小学生なのだから、頑張っておいで」と言って、無理に励ましたり、勇気づけたりする必要はありません。

「心配かもしれないけれど、先生も友だちもいるから、きっと楽しいと思うよ。終わったら必ず迎えに行くからね。」

 子どもの不安は不安として、しっかりと受け止めてあげてください。

 プール遊び、カレー作り、夜の幼稚園探検、花火・・・きっと子どもたちにとっては楽しい思い出となるでしょう。

2004年 6月

幼稚園はどんなとこ?

松山市内の幼稚園は、申し合わせによって、6月1日より来年度新入園児募集要項の配布が始まり、7月1日より願書の受付が始まります。

 少子化の時代の中で、多くの幼稚園では園児数が減少傾向にあります。

 ここ数年の間、勝山幼稚園のあり方について随分と悩んできました。また卒園児や在園児の保護者の皆さんからも多くのご意見をいただきました。感謝です。

 幼稚園は「子どもの都合を優先させた施設」であり、保育園は「親の都合を優先させた施設」です。

 ここに幼稚園と保育園のあり方の大きな違いがあります。「幼保一元化」(幼稚園と保育所を一緒にする)ということが最近は言われ出しましたが、なかなか難しい問題を含んでいます。

 勝山幼稚園は「子どもの都合を優先させた幼稚園」の方針は一貫しています。「子どもの喜ぶ笑顔」に突き動かされて保育環境や保育内容の準備を日々しています。

 保護者の皆さんが少しでも余裕をもって子どもたちと関わっていただけるとの願いから、保育時間外の「預かり保育」や「給食弁当」(週3回・選択制)を始めました。

 子どもたちにとって幼稚園がどうであったのかは、5年後、10年後の子どもたちの姿が教えてくれるだろうと思います。子どもたちの願いと思いに向き合っている幼稚園でありたいと願っています。

 「ホッ」とする!?

 先日、幼稚園の入口あたりのプランターの苗を植え替えていると、「園長~!」とわたしを呼ぶ女性の声がします。振り返ると卒園児でした。いまは市内の大学の1回生です。

 「近くに用事があったのですが、少し遠回りをして幼稚園の前を通るようにしたんです。そしたら園長先生を見かけて嬉しくて声をかけました。」

 嬉しくて、なつかしい再会でした。彼女にとって幼稚園は「ホッとするなつかしい思い出の場所」だそうです。

 県外の友人がたまたま幼稚園に子ども達がいる時間に私を訪ねてきて、しばらくの時間、園庭で遊んでいる子ども達をくつろいだ顔で眺めながら、「いいねー、こういう子ども達の様子を見ているのは。ホッとするよ」と言っていました。

 またピアノのレッスンで幼稚園に来ている卒園児も、

 「よかったなあ、幼稚園の時代は! もう一度、幼稚園の子どもになりたいよ」と口をそろえて言います。(そんな子ども達に、「いいよ、小学校をやめて幼稚園においでよ」と言うのですが、「そんなことできないよ」と必ず断られます。)

 子どもたちがいる幼稚園に足を踏み入れると、気持ちがホッとさせられ暖かくなるのはどうしてでしょう。

 気持ちがホッとできるのは、何もないからではなく、安心と暖かさが感じられる世界だからではないかと思います。

 幼稚園の敷地に足を踏み入れると、そこには泣いている顔、笑っている顔、怒っている顔、寂しそうにしている顔、微笑んでいる顔、いろいろな人間のありのままの表情が見られます。

 たまたま見かけたカレンダーの下段に

心のありようを うつしだし

人の顔はつくられてゆく。たっぷり泣いて

たっぷり怒ってたっぷり笑って

いつしか地蔵の顔に なれるのでしょうか

と書かれていました。

 私たちはいつの間にか、大人になるにつれて、自分のありのままの心の顔を見せなくなります。思っていることがすぐに顔に出てしまう人は軽薄な人間という先入観があって、怒りの感情を殺したり、作り笑いをしてしまいます。

 本当は、その時々の感情を思う存分に表現したいし、そうすることで豊かな味わい深い顔は作られてゆくのでしょう。

 子どもたちが必要としているのは、一人ひとりがその時々の思いや感情を、ありのままに表現できて、それが受け入れられる世界だと思います。泣いてもいいよ、笑ってもいいよ、怒ってもいいよ、と受け入れられ、愛されて、抱きしめられる大人の存在を必要としています。

 そして、子どもたちとのそのような関わりの中で、私たち大人も忘れていた感情を取り戻し、癒されていくのではないでしょうか。

 どんな子どもでも、ときに、あまりにも可愛くて、思わず手を出して抱きしめたくなる時があります。そこには豊かな関係が育っています。ある意味では、子どもが大人を親として育てていると言えます。

 子どもにとっても、私たちにとっても、「ホッと」できて、共に育っていく幼稚園でありたいと願っています。

2004年 4月

みんな一緒に

新しい年度が始まり、新しい子どもたちが入園してきました。

 年少組に入園した子供のご両親にとっては、幼稚園での子供の様子が気がかりであろうと思います。特に泣き叫ぶ子供と、後ろ髪を引かれる思いで幼稚園で別れたときは、いても立ってもおられない切ない気持ちになるでしょう。

 しかし、ご安心ください。子供たちは段々と幼稚園が好きになり、幼稚園での居場所をそのうちに必ず見つけます。

 なぜなら、自分と同じくらいの友達が沢山いるからです。泣いている子供は、泣くことよりも楽しいことを見出します。

 すぐに仲良しにならなくても、仲間に関心を抱き、一緒にいたいという興味を持つようになります。

 幼稚園での子供の動きは様々です。

 静かに絵本を見ていたり、ままごと遊びに夢中になっている子ども、走りわまっている子ども、友達のすることをじっと見ている子ども、教師の手を握って離さない子供、教師におしゃべりばかりする子供・・・、子供たちは慣れない環境にいるわけですから、それぞれの方法で心が落ち着くことを捜しています。そうした子供たちの「ありのまま」を幼稚園では受け入れます。

 しかし幼稚園は集団の中の生活ですから、最小限の約束ごとを決めて、幼稚園生活が始まります。

 約束とは、幼稚園に来たら、幼稚園の外には出ないこと、園庭で遊んでいて、「お部屋に帰るよ」と声をかければ、使っていた道具を片付けることなどです。

 「みんなといっしょ」にいることは子供にとっては心地よいことです。幼稚園に通うことが「楽しみ」の日々であることを願っています。

 お父さんやお母さんにとっても、これから子どものことでいろいろと悩んだり、迷ったり、振り回されたりするだろうと思います。

 そんなとき、子どもにどのように接すればいいのか、どのように育てればいいのか、その子どもにピッタリの育児方法を書いている本はどこにもありません。育児書に書いていることは参考にしかなりません。

 勝山幼稚園では今年度も「絵本の会」、「子育て・自分育ての会」、「土曜親子ふれあい日」、「趣味の会」などの集まりをします。これらの集まりを通して、ご一緒に「子育て」について楽しく悩んでゆきましょう。

2004年 3月

生活習慣の自立

年長組の子どもたちとは今日でお別れです。時間の過ぎる速さと子供たちの変化(成長)に驚かされます。

 小学校入学を前にして、今一度考えてみたいことは生活習慣の自立ということです。生活習慣とは、食事や排尿便、衣類の着脱、手洗い・うがい等の衛生習慣を含めますが、それらが自立しているかどうかということです。

 これらのことは、当然のことながら子どもは自分でできるでしょう。

 問題は、それらの事柄を自分で自発的にしているかどうかです。親が「早く服を着なさい」「歯を磨きなさい」「食事の前に手を洗いなさい」と言わないと、それらをしない子供は、自立しているとは言えません。ただ大人の命令にしたがって他動的に動いているに過ぎません。他動的に動かされている子供は、自発性が養われていませんから、誰か命令をくだす人がいないと、何もできません。常に受け身的に指示を待っています。

 これからの生活には、自分のことは自分で責任をもって、自分で人生を切り開いてゆく自発性が求められます。

 その自発性を養うためには、周囲の大人は子供に「まかせて」、口を極力出さないことです。口を出さないことは大変な忍耐のいることですが、「まかせて待つ」ことをしたいと思うのです。

 皆さんは心配するでしょう。「幼稚園でも追い立てるようにして行かせたのに、まして遅刻が許されない小学校こそしっかりと行かさなければ」と。しかし、自分がぐずぐずした結果、学校に遅れた、あるいは忘れ物をしたことにより、どんな思いをしたのか、それらの失敗を子供が体験することが、自発性を養うことになるだろうと思います。

 親心として「子供に恥ずかしい思いをさせたくない。不自由な思いをさせたくない」と思います。そのために子供の失敗にさきがけて口を出したり、手を貸したりすることが多くなります。そうすることがかえって、子供の自立を妨げることになります。

たどたどしい子供の行動を、口出しをせずに、はらはらとしながら見ることは、大変つらいことであり、忍耐のいることです。口を出すことは、親切のように見えますが、多くの場合は逆に不親切です。

 子供に対して「目を離さず、決して手を出さず、口を出さず、子どもを信じる」、どこまで親としてできるでしょうか。

 幼稚園を卒園されても勝山幼稚園と縁が切れたわけではありません。重荷は一人で背負わず、話しに来てください。

 お問い合わせフォームにもどうぞ!

 毎週月曜日の礼拝で子どもたちは献金をささげていますが、今年度の総額は、 54,803円でした。松山市社会福祉協議会を通じて幼稚園卒園児の保護者が関係されている共同作業所「ポッポ苑」と「れんげ園」に2万円ずつ。残額を福祉関連施設に寄付いたしました。感謝です。

2004年 2月

子育ての旬!

朝日新聞の2月2日の「声」の欄にこんな投書が掲載されていました。

「我が家には大学1年と小学校5年生の娘がいるが、20年前、まだ立ち会い分娩が今ほど普及してないときから、主人は休日を利用して、妊婦体操に付き添い、父親教室にも行ってくれた。命が胎内で育つことも生まれる瞬間も「自分の目」で見てきた。「子育ても半分ずつ」で協力してくれた。学校の行事も、父親と母親で子どもに向き合ってきた。

 『子育てにセオリーはないけれど、子育てには旬がある』が主人の子育ての持論。子どもはいつか親の元を離れていく。長い人生、子どもと真剣に向き合える期間は限られている。家族、子どもはかけがえのないものだと思う。」

 「子育てには旬がある」という言葉に大いに納得しました。

 「まいったよ! 息子から言われたよ。『なんで、親父、いまごろ、ノコノコと出てくるんだよ。俺が遊んでほしかったときは、親父は家にいなかったじゃないか。夜は遅くに帰ってくるし、たまの休みは親父だけでどこかにでかけるし、俺ら家族をどこかに連れて行ってくれたことがあるか? お前はこの家のなんなんだよ? ただの金の運び屋かよ? そんならそうと、運び屋がガタガタと家のことにいちいち口出しするんじゃねぇよ! バカ! お前はすっこんでろ!』こんなことを言われたよ。俺は返す言葉もなかった。」

 中学校2年生の息子の父親からこんなグチを聞かされたことがあります。

  子どもの頃に

  抱きしめられた記憶は、

  ひとのこころの、奥のほうの、

  大切な場所にずっと残っていく。

  そうして、その記憶は、

  優しさや思いやりの大切さを

  教えてくれたり、

  ひとりぼっちじゃないんだって

  思わせてくれたり、

  そこから先は行っちゃいけないよって

  止めてくれたり、

  死んじゃいたいくらい切ないときに

  支えてくれたりする。

  子どもをもっと抱きしめて

  あげてください。

  ちっちゃなこころは、

  いつも手をのばしています。

   (朝日新聞 2月2日付 第23面 下段広告)

 いましかできない子どもとの関わりと時間を大切にしませんか。

2004年 1月

あたたかさ

2004年が始まりました。今年もよろしくお願いします。たくさんの年賀状をありがとうございました。

 三学期ともなると、年少組の子供達もすっかり幼稚園に慣れてきて、子供達だけで遊びに夢中になっている姿が、少しずつ見えるようになります。

 子供達の世界にはワンマンのボスはいません。その友達と遊んでいることが楽しいから一緒であり、楽しくなくなるといつの間にかバラバラになってしまいます。子供達は周囲の大人が下手な介入をして邪魔をしない限り、遊びの天才です。夢中になって遊んでいる子供達の姿を見ていると、何となくこちらまであたたさが伝わってきます。

 子供は遊びに夢中になっているとき、子供のこころと目は輝いています。

 今年のひとつの目標として、子供に「ちゃんとしなさい」「はやくしなさい」「もっとがんばりなさい」という言葉かけを少し減らす努力をしてみませんか。

 子供が「ちゃんと、はやくする」ことで都合よくなるのは大人の側です。

 だんだんと「速さと効率と便利」が求められる世の中になってきましたが、一方では、こころのゆとりを少しずつ失ってきているように思います。

 だからこそ、大人の都合や理屈で子供を振り回すより、子供の都合で大人が振り回される世界をもう少し味わってみたいと思うのです。

 子どもたちの都合や子どもたちの時間に振り回される世界に、私達が失いかけている「あたたかさ」と「人間としての豊かさ」がひそんでいるように感じます。

 子供は試行錯誤を繰り返し、ジグザグの道を歩み、大人を巻き込んで困らせながら、自分自身を人間として豊かにさせているのです。その豊かさによって、周囲の私達も豊かにされるのではないでしょうか。

 子供は経済的にも精神的にも自立していないために、常に大人の庇護のもとにあります。大人に受け入れてもらうために、自分の存在や行動がどのように大人から評価されているか、いつも気にしています。あるときは不安の中にあります。

 もう少し子供をきちんと「突き放し」ながら、それでも人間同士の関わりとして「あたたかさ」の感じられる世界を求めたいと思うのです。

 少子化の時代の中で、多くの幼稚園は園児の獲得のために、親のいろんな要望にこたえることのできる「親のため」の幼稚園へと転換しつつあります。(それが、わたしの今年の大きな悩みです。)

そのような時代の流れをまったく無視することはできませんが、子どもが幼稚園の時期は、なるべく親と一緒にいる時間が多くあってほしいと思います。

 親が子どもと一緒にいることのできる期間は限られています。親の腕の中に抱かれていた子ども、親の膝の中にすぐに座り込んでいた子ども、そのような子どもの巣立ちの時期はやがてやってきます。

 その巣立ちのときまでに、子どもたちとたっぷりと関わっていただき、親として教えるべきことや伝えるべきことを与えてください。

 子どもたちは小学校中学年頃より、そろそろ巣立ちの準備を始めます。

 巣立つ子どもたちの後ろ姿を見ながら、どんな思いがするでしょう。

 幼い頃のいろいろな思い出とともに、よくぞここまで育ってくれたという喜びと感謝に満ちあふれたいと思います。

2003年

2003年 12月

クリスマス

■今年も幼稚園のクリスマス会を3回に分けて行ないます。クリスマス会の行事を、勝山幼稚園ではとても大切にしています。本番の前日は準備のために午前保育にさせていただいたり、当日は他のクラスは休園させていただいたりと、何かとご迷惑をおかけしますが、なにとぞご理解とご協力をよろしくお願いします。

(午前保育の日は午後の「預かり保育」をします。)

■クリスマス会のために子どもたちは早くから降誕劇や楽器演奏の準備をしていますが、本番当日は決してそれらの練習の成果を発表する場ではありません。下手でもいいのです。失敗してもいいのです。大事なのは、この日のために子どもたちが友だちや教師と大いにかかわり、楽しい思いや悔しい思いを分かち合いながら、お互いに受け入れ合って、本番の当日があるということです。本番の日にいたる過程を見守っていただきたいと思います。そして当日は大きくなった子どもたちの成長を喜びたいと思います。

■降誕劇やリズムプレイ、楽器演奏の役割は教師が指名するのではなく、子どもたちが納得のいくように決めています。

子どもたちはどの役割も一応は経験し、ひとつの役割に希望する者が多い場合はじゃんけん等で決めています。

■本番当日、会場である幼稚園ホールは「保育の現場」です。保護者の皆さんの前で子どもたちは大いに緊張するだろうと思いますが、子どもたちには大人の前で見せる「よい子」ではなくて、できるだけ普段の姿を表現してもらいたいと願っています。そのためには、子どもたちに静かで厳粛な雰囲気を提供したいと思いますので、私語を慎んでいただくなどご協力をよろしくお願いします。

■クリスマスパーティーのとき、親子でプレゼント交換をします。子どもたちはすでに手作りの品物を準備しています。

保護者の方も品物をご持参ください。幼稚園の保育の中で行う「プレゼント交換」ですので、保護者の方が用意していただく品物は、幼稚園の行き帰りや幼稚園内で使用するものに限らせていただきます。

(手提下げ袋、コップ袋、ザブトン、ランチョンマット、セーター、マフラー、 スカート、ズボン等)。既製品でもかまいませんが、子どもたちも手作りで用意していますから、なるべく手作りで用意してくだされば子どもたちも喜びます。お互いが「心と心」を贈り合う行事です。作品の仕上がり具合に上手下手はありません。

2003年 11月

子どもを変える力!

前回10月の「子育て・自分育ての会」は、夏井いつきさんをお招きして、「俳句ライブ」をしましたが、当日に話された「心が大いに動いた、いい話」を紹介します。

 夏井さんが、ある小学校で150人程の子どもたちを相手に「俳句ライブ」をしたときのこと。

 子どもたちに与えた季語は「春の雲」。俳句の作り方の説明を受けて、子どもたちは5分間で俳句を作ります。集められた俳句カードから、すぐさま10句ほどを選句し、その日の入賞を子どもたちの挙手で決めます。「俳句ライブ」の唯一絶対の決まりは、夏井さんが「この句は誰が作りましたか」と尋ねるまで、絶対に作者は名乗り出ないことです。(ある小学校での「俳句ライブ」で、選ばれた句のひとつが校長先生の作でした。「あっ、わたしの句が選ばれている!」と思わず大声を出して喜ばれたのですが、「ダメッ、違反! 校長先生といえども、例外はありません」と夏井さんはボードに張り出された句をみんなの前で破り捨てたそうです。校長先生は、唖然!!

 「春の雲あのきれいな声は誰だろう」が3位に選ばれました。

 この句に挙手した2年生の女子になぜこの句が気に入ったのか尋ねると、「この句を作った人は、こころのきれいな人だと思いました」の返事。

 「さあ、本日の3位の句を作った人は誰でしょう?」と言ったら、いつもはすぐに作者の手が挙がるのに、その日は3回聞いても挙がりません。「どうして? 書いてもらったカードの名前を見れば分かるのよ!」と言いかけて投稿カードを見ようとすると、会場の後ろの方で、どよめくような笑い声・・・その方向を見てみると、ほかの子どもたちより頭ひとつ抜き出た長身の男子が、遠慮がちに手を挙げていました。シャツの上のボタンは外していて、ズボンはだらしなく履いている・・・いかにも目立つ子でした。

 前に出てくるように促すと、イヤそうに肩をいからせながら来ます。「はい、おめでとう!拍手!」と褒めても、あまり嬉しそうではありません。

 数カ月後、その男子生徒の通う小学校の先生と会う機会があり、その子についての後日談を聞かされました。

 彼がある日、2年生の教室の前を歩いていると、「春の雲のおにい~ちゃ~ん!」と呼ぶ声がします。なんと声をかけたのは「この句を作った人はこころのきれいな人」とコメントした女子です。

 彼の顔は瞬く間に「ゆでダコ」のように真っ赤になり、それを見た女子は無邪気に「春の雲のおにい~ちゃ~ん! また来てね!」と通りすぎる彼に声をかけたそうです。

 それから彼は何度もその子のいる2年生の教室の前を通り、そのたびに「春の雲のおにい~ちゃ~ん!」とクラスの女子たちから次々に呼ばれて、顔を真っ赤にします。

 ある日の給食後の昼休み、彼は数名の子分と思われる男子を伴って、2年生のクラスにやってきました。驚いたのは担任の先生!これから何ごとが起こるのだろう?

 「あ~、おにいちゃん、来てくれたの」

と数人の女の子たちが取り囲み、本を読んでもらったり、おんぶしてもらったり、腕にぶら下がって遊んでもらったり・・たびたび2年生の教室に来るようになったそうです。

 彼は以前から万引きをしたり、学校の器物を壊したりして、学校の先生たちを振り回していたのですが、「俳句ライブ」の出来事以来、万引きをしなくなり、学校の器物も壊さなくなり、おだやかな表情の普通の男子に変わりました。

 その子は小学校入学以来、「あの子は手のかかる子、あの子は悪いことをする子、あの子は問題児」というようなレッテルを貼られてきたのでしょう。

 一旦、周囲から貼られたレッテルを自分から剥がすのは簡単ではありません。

「自分は評価されていない、邪魔者扱いされている、受け入れられていない」という思いを、その子は長い間、抱くことを不本意ながら強いられていたのだろうと思います。

 そんな彼に貼られたレッテルを、無邪気な2年生の女子が外から剥がしました。

 2年生の教室に訪れるたびに、彼を取り囲み、彼のことを歓迎してくれたことは、彼にとっては何よりの喜びの体験だったのだろうと思います。

 周囲がどのようなレッテルを子どもに貼るのか、周囲がどのように子どもを受け入れるのかによって、子ども自身のあり方が本当に変わるのだなあと、つくづくと思わされた「心が動いた、いい話」でした。

2003年 7月

子育ては楽しい!?

幼稚園では「子育て・自分育て」の会をしています。この会は「親育ての会」でもあります。

 子どもを授かって親になるということは、それまでは親に育てられて大人になり、自分で自分を育てていた人間が、今度は逆に人間を育てる側になるということです。

 このことは人生における大きな転換点です。先月の「園長の手紙」でも書きましたように、親になることの自信があったから親になったのではありません。子どもを育てる親として、人間として、私たちは未熟者です。だから子育ては不安だらけです。こんな自分に親としての資格があるのだろうかと悩むこともしばしばです。

 大人であるということは人間として完成されているということではありません。子どもであるということは人間として未完成ということではありません。完成品が未完成品を育てて「完成品」にするというのが「子育て」ではありません。

 子どもには本来自分で自分を育てるという能力とプログラムが備わっていると思います。子どもを取り巻く周囲の大人(親・保育者・教師)ができるかぎり邪魔をしない限り、子どもはそれなりの発達段階を経て大人になるのだと思います。

 ところが私たち周囲の大人はそれができないのです。どうしても子どもを未完成品として見てしまい、あれこれと手出しと口出しをしてしまいます。

 親として子どもを育てるということは、親になるまでに持っていた人生観や価値観、あるいはそれまで曖昧(アイマイ)のままにしていた問題を、自分の子どもという無視できない身近な存在によって見直しを迫られることではないでしょうか。

 だから子どもがぐずったとき、泣いたとき、自分の思い通りにならないとき、こんなはずではなかった、別の人生の選択肢もあったのではとイライラとするのです。

 子育ては不安だらけ、イライラだらけ、それでもいいのです。不安になる、イライラするということは、それだけ親が子どもに真剣に真正面から向かい合っているということです。

 不安でイライラする自分にしばし向かい合いませんか。一人ではなく、縁あってこの幼稚園の保護者となった仲間同士で語り合いませんか。「集まろう会」で自分育て・親育てをしませんか!皆さんのお越しをお待ちしています。

2003年 6月

子育ては負担?

今日子どもたちが持ち帰った勝山幼稚園の来年度募集要項の「いっしょに悩み、一緒に子育てしませんか」をお読みいただけたでしょうか。

 勝山幼稚園を「時流に逆らう頑固な幼稚園」と思われるかもしれませんが、長年、保育の現場にいる者として、また臨床心理士として多くの相談事例に関わった者としての「こだわり」です。

 最近の少子化対策として「子育て支援サービス事業」(預かり保育等)に補助金が出るようになって、多くの園が平日や土曜日、長期休み(夏休み・冬休み・春休み)の「長時間預かり保育」を実施するようになり、保育所と変わらないサービスをするようになりました。

「安心して子どもが産めるように、子育てに負担を軽減する」ためのサービスと言われています。以前、新聞の「子育て支援コーナー」に「子育ての負担を夫婦で分担していますか」と問いかけていました。

 いつから子どもを育てることが幸福でなくなり、「子育ては負担」になったのでしょうか。「子育ては犠牲」なのでしょうか。

 幼稚園や保育所が長時間保育をしてくれるようになったから親が子どもを積極的に預けるようになったのでしょうか。それとも「子育ては負担・犠牲」と考える親が増えたから幼稚園や保育所が長時間保育をするようになったのでしょうか。

 「子育ては負担」なのでしょうか?その負担を誰かにかわってもらうものなのでしょうか。

 我が家の3人の息子たちは赤ちゃんの時、それぞれに大変なことがありました。特に3人目の息子は1時間ごとに起きました。抱っこをすると泣き止み、布団におろすとまたすぐ泣きました。夫婦は寝不足になり、特に家内は頻繁にめまいが起こりました。

 子どもの都合によって夫婦の生活が振り回されたということでは「負担」と言えます。

 しかし、子どもも「生きる」ことに必死なのです。子どもは絶対的弱者です。周囲の援助なくしては生きていくことはできません。周囲の関心、両親の関心、特に母親の関心を得るために、けなげに生きています。泣いたり、笑ったり、パニックを起こしたり、・・・。

 好きな人が現れて、その人と一緒に暮らしたいと思うようになって結婚をし、子どもを与えられて、家族を営んでいます。「我こそは父として、母として、十分な資格を持っている」と自慢するものは何も持ち合わせていません。

 しかし、子どもは私たち親を「お父さん、お母さん」と全面的に信頼してくれています。

 「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(新約聖書コリントの信徒への手紙第-13章)という言葉があります。

 親は子どもをこのように愛そうと努めています。

 しかし、親以上に子どもが、私たち親をこのように愛してくれているのだということに気づかされます。

 人が人と一緒にいて、言葉を交わして、こころと体を触れ合って、抱いて、抱かれて、とにかく人と一緒にいるのがホッとして、嬉しくて、気持ちがいいことを教えてくれます。

 子どもが幼稚園の間は、たっぷりと子どもと関わっていただきたいと思います。一緒にいる時間を、親も子どもも必要としているのです。

 長時間子どもを預けることによって得られる豊かさと、子どもと存分に関わって得られる豊かさと、どちらが「いま」という時期に必要とされている本当の豊かさなのか、十分に考えたいと思います。

2003年 5月

もっと遊ぼう

新学期が始まり1ヵ月が過ぎました。例年と違って年少組の子どもたちの泣き声はあまり目立ちませんでした。幼稚園での居場所を見つけつつあります。家庭での子どもたちの様子はどうでしょうか。子供の遊びが活発になると、逆に周囲の大人にとっては気になることばかりが起こります。服を汚すような遊びをする、言葉使いが悪くなる、イタズラが多くなる、親の言うことを聞かず反抗するようになる、オドケやフザケが活発になる、喧嘩をよくするようになる、後片付けをしなくなる、好奇心が旺盛になって何にでも手を出したがる、難しいことでも自分ですることを強く主張する・・・。

  このように大人の困ることばかりをするようになるのですが、子供たちが積極的に遊びはじめた「しるし」です。どうしても私達大人は「いいか」「わるいか」の大人の基準で、子供たちのこうした行動を規制しようとしますが、しばし放っておくほうがよいように思うのです。しかしこれは決して「放任」ではありません。

  一方的に叱ったり、禁止するのではなく、子供の自由な世界を保証したいと思います。子供は自由な世界で色々なことに気が付いてゆきます。

 強制されたり、強く指導されて学んだことは、不快感が残るだけで、時間が過ぎれば忘れてしまうことも多いのです。自分が自主的に気が付き、発見したことは、その子供の本当の力となります。いわゆる「いい子」と、親や教師に誉められる子供たちの中に、案外と情緒不安定などの問題を持つようになる子供が多いことが報告されています。自分の限度以上に周囲に気遣いをして、誉められることに一生懸命になるのです。食事の後片付けを手伝う子供が、必ずしも喜んでしているとは限りません。弟妹の世話をしている兄姉が、必ずしも喜んでしているとは限りません。

 子供が生き生きとしている時は、自由に好きなことをしてもいいのだと受け入れてくれて、自分を愛してくれる豊かな大人が周囲にいる時です。

 子供を思わず叱りつけたい時もあります。腹を立てることもあります。親としての子供に対する「こだわり」を持つこともあります。しかし、子供と向き合ったとき、私達大人はどの様な人間的な豊かさを子供に示しているのか、常に吟味しながらかかわりたいと思います。

2003年 3月

思いを伝える

いよいよ年長組の子どもたちとはお別れの時が近づいてきました。子どもたちの家での様子はどうでしょうか。小学校への夢をふくらませているでしょうか。

 小学校では幼稚園とは違った環境に出会い、大いに戸惑い不安を抱くだろうと思います。そんな子どもに叱咤激励が必要なときもありますが、まずはありのままの子どもを受け止めてください。

 「自分はこの家族の中で大切にされている、必要とされている、受け入れられている」という親からの思いが、子どもに対して何かに付けて繰り返し伝えられて、子ども自身もそのことが実感できれば、子どもは戸惑いや不安を自分なりに乗り越えていくだろうと思います。子ども自身が本来持っている力を信じたいと思います。

 私たち親は我が子のことを何よりも大切に思っています。しかし、そのような親の思いは子どもにちゃんと伝わっているでしょうか。

 機会を見つけて子どもに聞いてみてください。

 「お母さん(お父さん)は、あなたのことをとても大切に思っているのだけれど、そのことちゃんと分かってくれている?」

 子どもが「うん、分かっている」と答えたならば、「お母さんやお父さんが、あなたにどんなことをした時にそう思うの?」と聞いてみてください。

 案外と親が思っていることとは違う答えが返ってくる場合があります。親としてはその子にとって一番いいと思う方法で、親の思いを伝えているつもりですが、子どもによっては受け止め方が違います。

 ゲーリー・チャップマンというアメリカのカウンセラーは、「あなたのことをとても大切に思っている(愛している)」ということを相手に伝えるための5つの方法を紹介しています。(詳しくは『子どもに愛を伝える方法』○○書館をお読みください)

 まずは「言葉かけ」です。「あなたが我が家の子どもとして生まれてよかった」、「お母さんはあなたがとても大好き」、「一人でできたじゃない。嬉しいな」等、子どもが親から言われて暖かい優しい気持ちになれるような「言葉かけ」です。同じ内容の「言葉かけ」でも、不自然でわざとらしく言われたり、厳しい口調で言われると、子どもの心は傷つきます。

 つぎに「スキンシップ」です。スキンシップは子どもを抱いたり、なでたり、膝の上に乗せたりという子どもと直接に触れることを全部含みます。ただし、子どもに恐怖を与えるような身体接触(叩く、つねる)は子どもに対して「自分は大切にされていない」という逆の感情を与えます。

 三番目は「子どもと一緒に時間を過ごす」方法です。短い時間では1時間とか、半日というまとまった時間を、その子どものためだけに過ごします。その時間の間は親はほかの用事をしながらではありません。親が自分のためにだけ一緒に付き合ってくれるということを通して、自分は大事にされているという実感を持ちます。

 四番目は「サービス」です。このサービスは子どもが望むことをするサービスであり、いやいやながらするのではなく、喜んでします。子どもの好物を作ったり、映画に連れて行くとか、そのとき子どもが自分にして欲しいと思っていることに応えるサービスです。サービスを受けることで自分は大切にされていると実感する子どもは、願い事を無視されたり断られると、大いにガッカリします。

 五番目は「プレゼント」です。子どもが欲しがるまま贈り物をするのではありません。贈り物は値段の問題ではなく、手作りのものであっても、それを贈られたことによって自分は愛されているということを感じることのできる贈り物です。

 子どもたちは、どんな伝えられ方を親からされると「自分は大切にされている、愛されている、受け入れられている、認められている」ということを実感するのでしょうか。

 一緒に買い物に行ったり、ゲームをしたりして子どもと一緒の時間を過ごしているからといって、そのことが、その子どもにとって、一番に親からしてもらいたいこととして望んでいるとは限りません。もしかしたら、何かにつけて抱きしめてもらいたい、頭をなでてもらいたい、そのようにしてもらうことによって、親からの愛情を一番感じるかもしれません。

 あらためて子どもたちへ愛の伝え方を振り返ってみてください。

2003年 1月

父親の役割は?

新年あけまして、おめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。沢山の年賀状をありがとうございます。本来なら、お一人おひとりにお礼状をだすべきところですが、この場を借りてお礼申し上げます。

 正月3日に久しぶりにアメリカ人の友人と会いました。彼はコルゲート大学(ニューヨーク州)の先生で27年来の古い友人です。奥さんは日本人で9歳の男子がいます。彼と話をしていて驚いたのは、子育ての環境は日本の方がアメリカよりはるかにましだということです。

 最近の統計によるとアメリカでは高卒の約2割が満足に読み書きができないし、生まれた子どもの20人に1人は何らかの理由で刑務所に収容されたことがあるそうです。また4割近くの子どもが未婚の母から生まれるそうです。青少年犯罪の増加を抑えるために母子家庭の子どもを政府が孤児院に引き取って育てることが真剣に連邦会議で議論されたことがあるそうです。しかし、彼が言うには、問題はそんな小手先の対応で解決できるような状況ではないそうです。

 家族とは何でしょう。「家庭」とはまず「子育ての場所」であり、「母と子のための場所」であると言うことができます。しかし、これは「わたしの家族だ」と宣言する父親(あるいは父親に代わる人)を抜きにして家族は成立しません。

 好きな女性(男性)が現れて、その人と一緒に暮らしたい、一生を共にしたいという思いを与えられて結婚をします。そこに「夫婦」が成立します。やがて子どもが生まれて「家族」が成立します。その時に、「この子どもは俺の子どもだ。ここにいるのは俺の家族だ」と宣言をする父親がいて、そこに「家族」が成立します。「この子どもは、あなたとわたしの子どもよ」と言う妻(母親)の言葉を信じる夫(父親)がいます。

 戦後50余年が経ちましたが、かつてのような絶対的な権力を誇示する父親は少なくなり、父親に対して求めるものが変化しつつあります。求められている望ましい「父親像」とは何でしょうか。

 以前に『父性の復権』(林道義著、中公新書)という本が出版されました。その本の巻頭には、「父の役割は家族を統合し、理念を掲げ、文化を伝え、社会のルールを教えることにある。この役割が失われる子どもは判断の基準、行動の原理を身につける機会を逸してしまう。いじめや不登校が起こり、利己的な人間、無気力な人間が増えるのもこの延長線上にある。独善的な権威を持って君臨する家父長ではなく、健全な権威を備えた父が必要だ。」と書かれています。

 「父親はもっともしっかりしなさい」ということかもしれませんが、確かに戦後からは父としての権威は落ちつつあると思います。元来父親というものは現在の社会機構の中では法的にも基本的に権力を持っているのです。権力というのは多くの場合、力を持っており、その力は悪という側面を持っていて、母親と子どもに無理を強いることがあります。

 「父親がだらしなくなった」、「父親不在」と、なぜ言われているのでしょうか。「お父さんからもちゃんと叱ってよ」とか「お父さんからもちゃんと言っておいてよ」と、「母の助手」を父親が演じることも多々あります。

 「波風のない家族」は表面的には「よい家族」のように見えますが、「対立のない家族、問題のない家族」は、その裏には大きな問題を抱えているように思います。なぜならば、家族に波風を立てないように、家族に迷惑をかけないようにと、家族の一人一人が気づかうことは、逆に家族同士を窮屈にしています。

 「嫌なことはイヤ」、「嫌いなことはキライ」と精一杯、家族同士が主張することができて、それでも「駄目なものはダメ、理由はないの!」と方向性を与える「社会的父性」を備えた父親が今こそ求められているのではないかと思います。

2002年

2002年 12月

クリスマスの出来事

クリスマスの時期に必ず引っ張りだしてきて読む心にしみる詩があります。

「足跡」

ある夜、わたしは夢を見た。

わたしは主と共に、渚を歩いていた。

暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。

どの光景にも、砂の上に二人の足跡が残されていた。

ひとつはわたしの足跡、

もうひとつは主の足跡であった。

これまでの人生の最期が映し出された時、わたしは砂の上の足跡に目を留めた。

そこにはひとつしか足跡がなかった。

わたしの人生で一番つらく、悲しい時だった。

このことがいつもわたしの心を乱していたので、わたしはその悩みについて主にお尋ねをした。

「主よ。わたしはあなたに従うと決心した時、あなたはすべての道において、わたしと共に歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。それなのに、わたしの人生で一番つらい時、ひとりの足跡しかなかったのです。一番あなたを必要としていたときに、あなたは、なぜ、わたしを捨てられたのですか。わたしには分かりません。」

主は、ささやかれた。

「わたしの大切な子よ。わたしはあなた愛している。あなたを決して見捨てたりしない。ましてや、苦しみのときに。足跡がひとつだったときは、わたしはあなたを背負って歩いていた。」

 2千年前に世界の片隅で起こったクリスマスの出来事は、まぶしいほどの明るさの中で起こったのではなく、暗闇の中で、しかも馬小屋という神の子が生まれるにはふさわしくない場所で起こった小さな暖かな光の出来事でした。しかし、この小さな出来事は、信じる者も、信じない者も、大きく巻き込んでいく出来事となりました。

 神の御使いがマリアに伝えた言葉は、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」でした。

 クリスマスの伝えることは、どんな時でも、自分はまったくの孤独だ、自分を理解してくれる者は誰もいない、自分を愛してくれる者はひとりもいない、そのように思い込んでいる人に、「そんなことはない。あなたと共に生きていてくれる人が必ずいる。あなたのことをじっと見守ってくれている人が必ずいる」ということです。

 先日に三男(小学校4年生)と一緒に見たビデオ映画『おとな帝国の逆襲』(クレヨンしんちゃん)のエンディングに、「わたしは今日まで生きてきました。誰かにささえられて。ときには誰かにしがみついて・・・」という私が学生だった1970年代のなつかしい歌が流れていました。

 人間を愛することができて、傷ついた人間を癒すことのできるのは、人間だけです。

 自分の一番苦しい時にこそ、すべてのものが自分を見放していると絶望の中にある時にこそ、その人に見えない神の業が働いているのだと信じています。そして、その業は、思いがけない人を通して、ある時は愛するわが子を通して明らかにされるのだと思います。

2002年 11月

過保護?

先月の「とべ動物園」への遠足は天候に恵まれました。勝山幼稚園のほか、いくつかの幼稚園と一緒なりましたが、各クラスに6人ほどの保護者が付き添っているのは勝山幼稚園だけでした。あるお母さんから「こうやって付き添ってくるのは、過保護なんでしょうか?わたしは動物園で子どもたちと一緒の時間を過ごせて、本当に楽しかったのですが・・・。家で一緒にいるときには見せないわが子の一面を見て嬉しかったのですが、あまりベタベタと子どもにくっつくのは駄目なんでしょうか」と問われました。「このように数人の保護者の方々に来ていただくのは、決して子どもたちに対する過保護とは思っていません。それどころか、子どもたちにとっては大人が自分たちを見守っていてくれて、相手をしてくれる、話を聞いてくれるということで、安心しているのではないかと思います」と、わたしはお答えをしました。

 ひとつのクラスが一緒に行動するのですが、檻の前に止まっては、「あれっ、おらんよ!どこにおるんやろ?」「おらんねぇ。あそにおるよ。ホラッ、あの草の後ろに」「おった!おった!臭いなぁ!」「このお猿さんは、こんな匂いなんよ。別にお風呂に入ってないから臭いんと違うんよ。」「フーン、あっ、あそこにおるんは子どもやろか。かわいいなぁ」「ほんと、かわいいねぇ」。こんな会話が、それぞれの檻の前で数人の子どもたちが付き添いの大人を囲んで展開されていました。こういう子どもへの大人の関わりが大切なんだろうと思います。

 子どもがその時に抱いた自分の疑問や驚き、関心などの感情を、その場で受け止めてくれて、返してくれる相手を必要としています。受け止めて返してくれることによって、さらに子どもたちの心の中の感情は動いたのだろうと思います。子どもは自分の抱いた感情を受け止めてくれたということで、自分は大事にされているという安心感を持っただろうと思います。

 「早くおいで!もうそこは見たでしょう!迷子になっても知らんよ!」と教師にせかされながら見るより、「もうここはいいかな?お隣に行こうか。お隣も面白そうよ!」と、グループの子どもたちのその時その時の関心と興味に寄り添ってくれて、付き合ってくれる大人がいるということは、子どもたちにとっては意味のあることです。

 周囲の人たちから自分が大切にされているという体験と経験の積み重ねが、自分に対する自尊心と誇りの感情を育ててゆきます。周囲から大切にされた子どもは、自分を大切にしてくれている人を信じることができるし、その人の周囲の人たちも信じることができるようになるんだろうと思います。そして、子どもから信頼の目を向けられたとき、わたしたち大人も失いつつあるものを回復させられるのだろうと思います。

 バスが幼稚園に着いて、「ああ~、楽しかった」と、子どもたちはバスを降りてきました。後日に聞いた話ですが、知人の子どもも同じ日に動物園で幼稚園の遠足でした。「ぜんぜん面白くなかった!」と帰ってくるなり不機嫌だったそうです。そう言った子どもの理由が分かるような気がします。

 これからも、園外保育の付き添いをよろしくお願いします。園外保育の安全のためだけではなく、子どもたちをお世話することによって、子どもたちのこころが安定し、逆にいつの間にかわたしたちも子どもたちにこころのお世話を受けていることに気がつきます。子どもたちに感謝!

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