皆さんは、ご自分が赤ん坊の頃を覚えていますか?周囲からどのように受け入れられたか、両親からどんなふうに愛され、可愛がられたか覚えていますか?
もちろん、はっきりとは覚えていないでしょう。しかし、たっぷりと愛された感触は体の中に残っていると思います。そして、自分が赤ん坊の頃に両親から受け入れられたと同じように、自分の子どもを受け入れているだろうと思います。
子どもが、周囲から「大切にされている自分」を、おぼろげながらでも感じるようになるのは1歳半頃と言われています。言うなれば、「私」という「自我」が誕生する時期です。
1歳半くらいになると、赤ん坊の表情は豊かになります。それまでは、大小便のお世話やミルクの準備に追われる毎日であり、夜泣きに悩まされることの多い日が続きます。
たまに赤ん坊が見せる笑顔が、忙しい子育ての日々を慰めてくれるのではないでしょうか。
しかしながら、次第に1歳半頃になると、歩くようになるし、片言の言葉をしゃべるようになるし、喜怒哀楽の表情は豊かになり、満面の笑顔はとても可愛くなります。体重は抱き上げるのにほどよい重さであり、肌の柔らかさと張りは何とも言えない感触があります。
そんな我が子を、親は可愛くて仕方ないと、ますます思うようになり、子どもは「自分は親から愛されているんだ」と思うようになります。自分のすべてが親に受け入れられていて、愛されているのだということを、何の疑いもなく感じるようになります。
子どもは、このように徹底して愛されることを本能的に求めようとします。だから、子どもは子どもなりに、一所懸命に努力して愛されようとします。「笑顔」という武器を存分に使って、親から愛されようとします。親に受け入れられて、大切にされて、愛されて、生きていくということは、子どもにとっては命がけのことです。
そのように、手間と時間と愛情をかけて育ててきた子どもが、5~6歳のころから親に悪態をつくようになります。小学校、中学校と、子どもが大きく成長するにつれて、その悪態のつき方は、親からすれば、腹立たしい限りです。
けれども、このような子どもの親に対する攻撃的な関りは、「本当にお前たちは自分を愛してくれているのか?」という問いかけでもあります。赤ん坊の頃に愛してくれたことは、親の真実の思いだったのかと、問い直しているのだろうと思います。そして、「ああ、お前が好きだよ。そのまんまのお前が好きだよ」という親のメッセージを待っているのだと思います。
私たち親は、自分の子どもにとってよかれと思えることを精一杯してきたと思っています。子どもが求めてきたとき、その要求が親として納得できたときは、何でも与えてきたと思っています。
いっぱいの愛情を注いできたし、いまも注いでいると思っています。
しかし、私たち親の思いと、子どもの受け止め方は違うようです。どちらかと言うと、親の思い込みの方が強いようです。子どものためにと思って、子どもにさせてきたことが、実は子どもにとっては苦痛と忍耐以外の何ものでもなかったということもあるのです。
家庭内暴力のとある15歳の男子が、自分の幼稚園の頃のことを振り返り、母親に向かって「あの頃のお前は俺に無理矢理に習い事をさせた。英会話、習字、スイミング、ピアノと。俺はイヤでイヤでたまらなかった。けど、俺は我慢した。俺が上手になると、お前が嬉しそうにしていたから我慢した。今度はお前が我慢する番だ。」と言ったのですが、母親は息子に返す言葉がありませんでした。
子どもを自分の思いどおりに育てようと思うと、「子育て」は難しいものです。子どもは自らを育てる力を持っているのだから、その子なりの成長の過程に付き合えばいいのだと思うと、「子育て」は、気が楽かもしれません。
「この子はどんな関心をもっているのだろう?」、「この子の得意なことは何だろう?」、「この子のためにどんな関わりをすればいいのだろう?どんな環境を用意すればいいのだろう?」
と、周囲の大人と親が、愛情をもって、その子に「関心を持ち続け」、その子の「成長を見守り続け」るならば、その子は、その子なりに、大きく成長するのではないかと思います。
文責 チャプレン(武井義定)


